suimin-ing-days

一に睡眠、二に睡眠、三、四睡眠五睡眠

5年後の自分へ

ブログを書くのもなにやら久しぶりになってしまい、気がつくとブログを始めてから1年経ちそうだ。

去年は大学二年目なりの授業とサークルの忙しさと、不全感と人生への不安を持ちながらもなんとかやっていたんだと思う。

今は、それなりの忙しさと迫る就活への不安、相変わらずの不全感に、人生へのあきらめと言えるような気持ちを抱きゆっくり歩いている。

 

この人生へのあきらめは決してネガテイブな方向のみでなくて、

「今後もなるようにしかならないし、できることをすれば相応な場所で生きてはいける(だろう)」というやや前向きな気持ちととらえている。悪く言えば自分の限界を決めてしまっているのだが、どこかで一旦自分の能力を決めないと落ち着くところにも行き着かない、と思う。

余談だが「あきらめ」の語源は「明らかにする」なので、何ができて何ができなくて、そして人に任せるのか明らかにするという意味でも決して後ろ向きばかりではないらしい(出典の書籍を忘れてしまったが、見当はついているので追記する。)。

 

5年後の自分はどうなっているのか見当もつかないが、不慮の事故や病気がない限りまだ生きているだろう。

今学校で取り組んでいるような雑誌作り、物書きや編集にかかわる仕事をしていたら学生時代の私も浮かばれるだろうが、別にこだわりはない。

正直今の私からしたら、何かしら仕事しているだけですごいことだと思う。仕事をしていなくても、あれから5年生き続けたこと自体がすごい。

まあなので、これからも何か気負ったりせず楽しく生きてほしい。

懸念点と言えば、親の生きる理由が私になっているんじゃないかと気掛かりではあって、そんなうちに私の生きる理由も親のためになってそうなことだろうか。

現在の持論としては、残念ながら人はいずれ死ぬので(それまで親が私に想いを馳せるのは勝手だが、)余生はのんびり自分のおいしいものを食べたり好きな事をしたりして感じる幸せを噛みしめ過ごしてもらいたい。多分その時期私は私で仕事の上にやりたいことが沢山あるため、あんまり構うのもよしたほうがいいのではというのが今の考えだ。

 

あとブログもろもろにかんして、私は暗黙知が真っ当な形で世に出たときは共感・評価されるという可能性を信じている。それは「こんなのあったらいいな」が商品化したときかもしれないし、うまく言えなかった不安の愚痴文章に対しいいね!やスターが付くときかもしれない。つまり言語化・明文化するのが難しい(或いは面倒くさい)ような気持ちが文章になっているに価値を感じる。なので、私はそういうことが沢山できる人間になりたい。 これは今の気持ちなので5年後には変わってるかもしれないが。

 

段々長くなってまとまらなくなってきたのでこれくらいに。5年後は頭の中で考えている(話している)ことが出力できる技術が発明されていたらいいなあ。

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

 

もっと自分なりに生きるのはダメですか?―「普通の大学生」になるのは、やめよう

 風邪をひいたことがきっかけ?

 

風邪を、ひきました。

それも寝込むような風邪です。軽い風邪で2・3日鼻水が止まらない、なんてことはあったのですが(それでも年に1度くらい)、寝込んだ記憶は中学生の頃以来ないので、多分5年以上振りになります。

結果大学のほとんどの授業は休み、家で休息をとる数日間を送りました。

無駄に健康体な私にとって、この事態は非常に珍しいことでした。

 

病状が回復した今だから言えることですが、この状況はある程度現状を見直す機会になったと思います(もちろんほぼ寝ていたので休む意味以上ではないですが)。

 

私の現状、というのは所謂「普通の大学生」のようなこと。所詮「ようなこと」なのでアレなんですが。

 家から大学への通学中以外、人と居る予定が詰まっているような。

 一週間で毎日家から東京へ出ているような(私は東京まで1時間強はかかる地域に住んでいます。また、高校生時代は土日のどちらかは家で一日中ごろごろしていました。)。

例えば午前中から夕方まで大学の講義に出る、昼休みと放課後はサークル活動に精を出す、休日はバイト、たまに就活のためのイベントに足を運ぶ。などなど。

 

私は入学当初からもともとこの「普通の大学生」像に疑問を感じていました。

  • いつも人と居たら自分の時間が取れないのでは?
  • 一週間毎日外出していたら疲れて病気になるのでは?
  • そもそもそんな過ごし方は私には合わないのでは?

しかし、現実を見てみるとこういう大学生は周りに多いことがわかってきました。

同時に、そういう大学生は毎日が楽しそうで、勉強*1にも励んでいることも。この事実は非常につらいものでしたが、上を見てもキリがないため自分の伸びしろを伸ばすしかないと思いました。

「普通の大学生」は普通の大学生たる日々の行動をしているため、持つべきものを持っています。無いものねだりかもしれませんが、私にもそれらがほしいという願望があります。

それなら「普通の大学生」の行動を一丁真似るか!健康は無駄にあるし!

――と私が心から思ったかどうかはさておき、学年が上がると適当に人と何かをする機会は増え、土日も学校に来ることもありました。

確かに、そうなんです。

人と居て、話したりしながら何かをするのは楽しかったです。外に出ると見られている感覚があるのでやるべきことが片付きやすかったです。

更に、そうして詰まった予定が次々と迫ってくる感覚はドキドキと、ワクワクがありました。

そんな感じで暫くエキサイティングに過ごしていましたが、やはり疲れはありました。胃腸は一年前に比べ悪くなったと思います。帰宅が夜遅く夕食も遅くなるためです。

 

大学3年生になると、その傾向は加速していくようでした。

サークルでの役割がドンと増えたり、就活に向けて情報がバンバン出たり単純にやるべきことが増えたんだと思います。 

そこで現在(先週)の、風邪をひいたときに至ります。キャパオーバー、―自分で処理できる範囲・規模を越えてしまった―が来たのでしょう。

 

大学生活、本当にこれでいいの? 

そうしてもう一度、風邪の頭で自分の日々の過ごし方について考えてみました。

 自分はこのまま、こういう過ごし方でいいのでしょうか?

結論から言うと、「普通の大学生」の生活はやはり私には相容れない部分があるのだと思います。

 

この時期*2に風邪で3日間寝込み、その間のあらゆる予定が潰えたことは非常に痛手です。手っ取り早く言うと、予定のアポを取り直したり大学の勉強を挽回することに苦労しました。

それはつまり、何かがあったときにどうにかする時間、言うならば予備日を持っていなかったということです。

人と何かをやっていこうというときに予備日を持たないのは、ダメでしょう。

自分に責任があることでバカになるのは結構ですが、他の誰かにも影響が及ぶことは余裕をもって賢く取り組むべきだと思いました。

よって一週間毎日人と会う予定があるのは控えて、一日は予備日を設けたいです。

この予備日には上記以外にも様々な意味づけがあります。

  • (課題・予定キャンセルなど)何かあったときにどうにかする日
  • 寝溜めの日
  • 家にこもることで精神的に休む日 など

 

 

また、大学の2年間を通し自分の中で確立していたことが崩れていく――そんな違和感がありました。

それは下記のようなことです。

  • 授業は全部ちゃんと出る、ましてや好きな授業は全力で。
  • 自分のためにもレポート課題には時間と労力をかける。
  • たまに一人で突拍子もなく気になる展覧会や映画を観にいく。
  • ネット記事を片っ端から読む。
  • 電車内ではkindleで本を読む。
  • (週一日は家でよく休む。)など。

なんてことのない日常の些事ですが、こんなことでも私にとっては大事にしたいことです。

先週体調不良になるまでこれらのことをしている場合じゃなかったり、眠気が意欲に勝てなくなったり(講義中はよく気を失っていました。)で、ないがしろになっていました。

しかしそれはやはり、精神的にも厳しい。

ダメでした。レポート課題を軽くこなしている自分に気づいたとき、自分がこれまで築き上げたことがガラガラと音を立てて崩れていくようでした。自分で見ていられませんでした。

人は絶えず変わるものだろうけど、私はこれらの生き方は自分でも好きだから、変わりたくない。そう強く思いました。

 

もしかして、もっと自分が生きやすいように生きてもいいのでは? 

前述のとおり、私は「普通の大学生」が持っているようなものにあこがれています。

それは、人とのつながりの広さ・深さだったり、楽しいこと・つらいことをたくさん体験したという経験だったり、若さだったり、鬼忙しいことへのドキドキ・ワクワクだったり……。多分まだあります。

 

  でも、それは「普通の大学生」のような生活をしていなければ手に入らないのでしょうか?

  今あげたものは本当に全部、自分のもともとある生き方を殺してまで手に入れたいのでしょうか?

 そんな発想が出てきたとき、少し肩の力が抜けました。

 

どんなふうに人とかかわって、予定を入れて、実行していくのか?、というような細やかな生き方は自分で試行錯誤していいのだと思います。

一つのやり方があまりにもつらかったら、他の方法を模索すればいい。

 

ロールモデル、つまりお手本になるような像は持っていて損はないです。

しかし自分のなりたい方向は、自分で程度を調整していいのだと思います。お手本自体になる必要はないし、実際なれっこないことは誰でもわかっているはずです。

 

「普通の大学生」になるのは、やめよう。

  

*1:なお大学の勉強とは限らない。

*2:大学3年生の夏前。夏の大イベントに向け忙しい時期です

話をする友達がほしい

私はもう所謂リア充にはなれないのだろう、と大学生になってから確信した。

なぜならそれでもいいやという諦め、緩やかな満足感があるのだ。

 

 

でも友達はほしい。

私が今年に入ってから5回くらい言ってる「成長し合える仲間」っていうやつだ。もっとざっくり言うと何でも話せて、ノリでご飯行ったり遊びに行ったりして、方向性が合致したら一緒に何か作り上げたりして(身近にモデルがいるのでこんなだと感じているだけで、自分だったら前二つくらいで十分そうではある)。

かつてはリア充のこととおんなじで、もう私はそこまでの友達はほしくないし、そこそこ一人で生きていくんだろうと思っていた。たけど、そうでもなさそうだ。

具体的行動に移す気力はないけど、友達がほしい。

その瞬間になるともういいやってなってしまうけど、友達がほしい。

 

そもそも私は高校2年生の後半から「友達をつくるのは、楽しさに対して苦労が大きすぎる」と判断して進んで一人を選んでいた。超雑に言うと神経質な性格だから人と仲良くするのは常に何かを考えながらで、楽しさより辛さが勝ってしまう。
そのときの判断はある意味正しかった。高校3年にもなると受験でろくに行事もなくなるので「はーい、今から二人組でこれしてもらいますー」

はい、二人組つくってーとは (ハイフタリグミツクッテーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

もなく、昼食を早弁して昼の長い休み時間は図書館で勉強をしていたし、そもそもクラスメイト同士の会話も減っていってたから一人でいることに負い目を感じることもなかった。自由で気持ちがよかった。まるでやりたくもない文化祭の準備が終わってさっさと帰れるときのような、解放感。自分の好きな風に動けることがこんなに心地いいなんてしらなかった。しかも、それに対して先生やクラスメイトは何も咎めなかった。
もちろんたまに寂しくなることもあるにはあったが、その度に「今から本気で友達をつくりたいと思うほどの勇気はない」と思い直し、諦めていた。

大学に入ると年中固定のクラスはなくないので、気が楽だった。少ないながらも普通に昼休みを過ごす友達はできたし、サークルでもなじむことができたと思う。
高校2年生の頃あんなにもがいて空回ることすらできず、引きつった笑顔を見せながら居場所を探していたのがバカみたいに楽だった。その後空回りサイクルを回す人と化すが、それはまた別の話。

 

友達がほしい。

なぜかと言うと多分、すごく話をしたいんだと思う。

そのために今の大学の友達でももっと物理的に長く一緒に居たいと思う。他の、知り合い程度の人でもその話もっと聞きたいなーというのがあるので仲良くしたいと思う。

思うんだけど、なぜか「ここだ」と思う瞬間では冷めてしまう。

「あなたも行く?」と言ってもらったとき。「ここ行きたいなー」という話の流れになったとき、エトセトラ。

何でこうなっちゃうのかを考えると、よくわからない。本当にめんどくさいとか嫌だ思ってるのか、それとも意地を張ってるだけなのか、勇気が出ないのか、恥ずかしいのか。

あとやっぱり人間なので「ちゃんと友達がいます感」、社会的価値がほしいんだろう。ただそういうこと考え始めるとコネのために友達作るの?という思考回路が表れるのであまり気にせずに過ごせたらいいなと言うのが現在。

 

きっとこの辺の、友達関係のことも結婚のことと同じで、本当にしたいと思ったら方向性を決めて恥ずかしいとか大変とか関係なく特攻するしかないのだろう。普通にしたいと思ったら相手に良く思わようとせず人に接することが近道、みたいな感じなのだろう。

この手の話題は一時期(今も)ハマって本をちゃんと読んだら面白かった。そういえばとある対談で見たことだが、ホモソーシャルな価値観を持っている方は結婚することを諦めれば結婚できる。そうだ。

 

こうして書いてたら本当に友達がほしいのかもどうかわからなくなってきたけど、

仮に今そこそこ知ってる人から「飯行こうぜー!君のおごりねw」ってメッセージがきたら尻尾振ってついてくるのでそんな感じなんだろうと思う。

ぶっちゃけ1回や2回のおごりで存分に語れるならおごるよなあ……ただどっちにしてもそこまでのハウツーが謎すぎるのでどうすればいいのか。

「話がしたい」から欲求が始まってるのって高齢者かよって感じですがよろしくお願いします(?)。

久しぶりに書いたブログがなかなか見る人を選びそうな感じになってますが、ここではいろんな文体を試したいとも思ってるのでこれはこれで。

 

漠然とした不安を持つ自分と向き合いたい-朝井リョウ「何者」を読みました

こんにちは。

最近学校がスーツの人々で溢れています。

就職活動が始まり、学校で合同説明会が連日開催されているようです。

それについて思うことは様々ありますが、一つ、大きなものは「私は就活ないし就職ができるのだろうか」ということです。

私は来年一般的に就活する時期になりますが、自分が就活しているイメージが湧きません。

ぴしっとスーツでキメて、自己分析をしたり、OBOG訪問をしたり、会社説明会に参加したり、面接をしたり……等々?

それすらもわかりません。

イメージできていようが、いまいが就職すると決めたら就活は避けて通れないでしょう。

漠然とした不安が募るばかりで、リクルートスーツの人を見るとそれを思い出してしまうので辛いですね……。

 

朝井リョウさんの小説「何者」を読みました。

読んで、いろいろと思ったことがあったので書きます。

最初に言いますが、ここではネタバレはしません。

しかし文章上内容の要約程度はしています。また、Amazonの内容紹介の引用をしています。

 

もともと学校の上級生に薦められたものでした。

ふと思い出してAmazonのページに飛びましたが、上記の通り就活に関して不安ばかりなので紹介文の「就活を題材としている」を見て購入を一瞬躊躇いました。

 

内容紹介

就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから――。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて……。直木賞受賞作。

 

しかし、好奇心は不安に勝つ。

レビューでは「twitterで牽制しあう様子が描かれている」等と書かれていました。「twitterで」。

「牽制」。

これらのワードが私の好奇心にクリーンヒットし、購入に至りました。

すごく心当たりがあったんだと思います。

 

暫くの間は資格勉強やらなんやらで放置していました。

それらが終わって、開放感で小説が読みたい!となる。

kindleを開く。そういえばこの小説も買ったな。読もう。

という流れで読み始めました。

 

一つ、

刺さる。

当初の小説読みたい欲は1/3読んだ程度でいっぱいになりました。

 

刺さったのは4つ程。

詳しくは書きませんがなんとなく書いていきます。

それも自分で探しながら読みたい!という方は飛ばしたほうがいいかも。

 

 

 

この小説の登場人物の多くはtwitterを使っていて、その投稿内容も本文に挟まれます。

その世界を生きている彼らが、140文字という限られた文章の中で伝えたいこと。

伝えたいけど、書かないこと。

書かないけど、大事なこと。書くけど、大事じゃないこと。

大事だから書くけど、短い言葉に加工すること。

SNSでは、短い言葉で自分をアピールする」という点に対し、主人公は一つの考えを持っています。

その後紆余曲折あって、この点に関しては一つの結論のようなものも示されます。

その考え方がいいのか悪いのか、わかりません。

でもきっとそれが真実なんでしょう。

私もそうですから。

ネタバレを割ける余り何だかふわっとしてしまいましたが、この点は特に過程も含めて読んでほしい部分です。ご理解ください。

他の本の受け売りですが

自分の気持ちをネット上に書こうとすると、普段から見られることを意識して気持ちを感じてしまう癖がついてしまいがちだそうで。

ブログを書いている身としては非常に刺さるのですが、文章を書くことも楽しいから続けている次第です(刺さりっぱなしで自分の中で咀嚼できていないことも感じているので、一度考えたい)。

 

  • ②会話を交わしていく上でのあれこれ。

SNS上においても、現実においても。

「明言はしないけどこの人は自分の為に、きっとこう言ってほしいんだろう。なんて奴だ。」みたいな(本文の引用ではありません)。

思惑が交錯する感じ。

当に「牽制」。

私はこういうことを考える自分があまり好きではなかった。

一時期、すごく悩んで、考えた記憶がある。

だからこそ「他の人(登場人物)も同じように思考を巡らせたりするのか?」と興味が湧いた訳ですが。

 

  •  ③「何者か」になろうとしている様子

この小説の登場人物の多くは「『何者か』になろうとしている」と描写されています。

あくまで主人公視点で、ですが。

私も何者かになろうとしていたんだと思います。

所属でアイデンティティーを意識したり、振り返ると訳の分からないマウンティング発言をしていたり。

でも私は脱した、と思っています。嘘です。

今も少し、何者かになろうとしていると思います。

しているけど、そういうのは空しいとわかっているし、結局意味はないから他のことに労力を割いたほうが有意義だし……ネタバレになりそうなのでやめます。

読んでいてこういう思考回路だったんだな、と。

理解はしているけど考え方に癖がついていることを再確認しました。

 

小説の終盤は力強さがありました。

ジェットコースターで例えるなら、一気に上り詰めて、頂点に到達する。

そしてエピローグは緩やかに進行。緩やかなまま終わるので、地上まで辿り着いていない。

もっと登場人物のその後を読みたい。

この世界の「模範解答」を知りたい。

就活がテーマだからこそ、より強くそう思ったのかもしれません。

でもきっと、「自分で考えろ」ってことなのでしょう。

登場人物のその後は私のその後ではないし、正解でもないし。そもそも正解かどうかなんて誰にも判らないし。

そんなこと、誰でもわかっているはずなんですけれどね。

 

  • ④「そのステージに上がってすらいない」こと

私は小説を読むときに、どうしても登場人物と自身とを比較してしまいます。

そしてこのキャラは自分に似ている、似ていないと考えてしまいがちです。

でも、どの小説でも一貫して思う。彼らとは違うところ。

「私はここまで激しい気持ちをぶつけられるほどの行動をしていない。」

私はまだそのステージまで上がっていない。上り方もわからない。

「怒られたり、泣かれたりしてもその反応がもらえるだけいいじゃないか。」

といつも思います。

登場人物は自分の気持ちをぶつけます。

お互いにぶつけあって、ボロボロになって、成長していきます。そうしないと物語が進まないから当たり前と言えば当たり前のことですが。

 

この小説でも、主人公は尖った言葉で、激しい気持ちをぶつけられます。

読み終わった瞬間「その部分」についてはあまり感じていませんでした。

なぜなら自分はまだそのステージにすら立っていないから。

尖っていても、ちゃんと考えられたまっとうな言葉だ。ぶつけられるだけ、羨ましい。

しかし、少し経って、毒が回ってきたようにじわりじわりと刺さる。

 

「その部分」こそ「まだそのステージに上がってすらいない」私のことではないか。

確かに主人公は一部では自分の気持ちを出しているが、一部は、違う。

人だから当然だろ、って感じですが大抵小説の中ではスルーされます。

でもこの世界にはtwitterがある。

つまり、少し状況は違うが「その部分」は「私にぶつけられているんだ」と思い始めました。

「まだそのステージに上がってすらいない」。

多分、逃げているのだろうな。

人に不格好な姿を見せたくないから。でも、羨ましい。じゃあやるしかないのでは?

「上り方がわからないから仕方ない」。

わからないなら、聞くか、わからなくても、試しまくればいいのではないか。

結局逃げている。そんな自分はずるい。

未だにじわじわと刺さり続けています。

 

この文脈だと先の「書かないけど、大事なこと」を書きそうですね。

刺さったけど、私はどうするんでしょう。正直まだちょっとわかりません。

自分がずるいのはわかったけど、染みついた動き方を変えるのは難しい。それは私と接している相手も同じだと思います。

試しまくったとして、どのくらいで効果が出るのか(それが就活の時期と重なって、余計に生き辛くなったりしないか)とか、わからないから聞きたいけど、どうやって?とか。

とりあえず「試しまくる」に寄ってみよう思います。

とりあえず現状で。その先はわかりません。

その先はわかったとしても、多分「書かないけど、大事なこと」になりそうです。

書くと自分で意識しすぎて固まってしまいそうなので。

 

 

 

 

 

何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 

いろいろ書きましたが

【就活生は小説「何者」を読め】

ってすごく言いたいですね。

「『何者か』になろうとしている」下りは就活生は特に意識する部分でしょうし。

 

一応年上なので、訂正します。

【就活生は小説「何者」を読んでください。】

もちろん、就活生以外も読んでいただきたい。

話の進行上SNSによく触れる人のほうがとっつきやすい(というかとてつもなく刺さる)と思います。

が、普通に生きている一定年齢以上の人なら何かしら得られるものはあると思います。

 

これも半分他の本の受け売りですが

何の本でもそうですが、なんとなく結末がわかっていても、そこに至る過程の一から十まで明文化されているものを読む。

そこにこそあなたにものがあるかもしれないし、過程を経てきた結論だからこそ気づくことも沢山あると思います。

 

さて、一番最初に書いた私の就活に対する漠然とした不安。

それはどう変化するのでしょうか。もしかすると、変化しないかもしれません。

それでもきっと、やっていくのでしょう。

ここまで書いて、今はそんな気持ちです。

 

それでは、楽しい(読書)ライフをお過ごしください。

 

ソフトコンタクトレンズを購入した(メモ)

2か月程前、ソフトコンタクトレンズを購入しました。
その際(主に装着に)すごく苦労したので忘備録として書いておきます。
最終的に、眼科に二回通って練習をすることで自分で装着ができるようになり晴れて購入はできました。

珍しく「実際にやったこと」の記事です。時系列で振り返ります。

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2015年 春

  • 成人式のためにコンタクト買おう!と思い立つ

私は視力がとてつもなく低いです。裸眼だと階段を下りる足もおぼつきません。

「目に異物入れるの怖いし…」という単純な理由で普段は眼鏡をかけているのですが、成人式という一大イベントが立ちはだかります。

やはり見た目的に眼鏡じゃないほうがいいだろう、しかし裸眼じゃみんなの顔わからない。じゃあコンタクト買うかー…、という風になんとなく昨年四季の予定を聞いたときから思っていました。

 

2015年 冬

  • それから月日は過ぎ、冬期休暇。あれ?やばくない?

コンタクトは店頭や通販で購入もできますが、とりあえず初回なので眼科で処方箋をもらおうという方向になっていました。
自分じゃコンタクトを購入してもきっと怖くて着けれないことも予想済み。
そこでネットで調べたところ眼科では装着練習できるらしいのでちょうどいいや、という思いでした。

さて、成人式は1月です。しかしコンタクトは1回目で買えないとか、慣らす必要があるとかネットで見ました。

「12月中には眼科に行かなくてはならない…!」

年末予定が詰まっていたかといえば、そうでもありませんでした。しかし何かを理由とつけて、眼科へ行くのを渋る毎日…。原因はやっぱり怖いということ。

 

2015年 12月30日

  • 段々理由をつけるのも疲れて覚悟を決めたその日。いざ眼科へ!

 午後2時過ぎに眼科へ。過去何度か眼鏡の処方箋をもらいに行ったところでした。

受付をして、少し待って、視力などもろもろ検査。ここまでは眼鏡のときと同じです。そしてコンタクトの種類を決め、装着と取り外し練習、という流れのようでした。
初めてということで単価の安いソフトコンタクトに。細かい種類はつけ外ししやすいという勧めで決めました。

目の前にすると思ったより面積が大きい。

いままで父のハードコンタクトレンズしかちゃんと見たことがなかったので驚きました。
同時に本当にこの大きさのものが目に入るのか…?という疑念も浮かびました。

ここから眼科パート。

1.とりあえず、言われるがままに椅子に座って眼科の人に装着してもらう。

これが、なかなかうまくいかない。
眼科の人の指が迫ってくるのを見ると、目を閉じようとしてしまう。それでも眼科の人は目を開けさせるしかない。

「目の力抜いてくださいー」と言われ、意識を遠ざけて力を抜こうとはしてみるも、勝手に目は閉じてしまう。
本当に眼科の人(先生ではないし、看護師とは言わないし、何と言うんでしょう。)には申し訳なかったです。
なんとか眼科の人のテクニック(下半分からくっつけて、滑らせる)で装着はできました。
この時点で瞼と目には痛みがじんじん残る。でも、眼鏡の重さがなくても視界が明るい。それはすごい新鮮な感じでした。
ソフトコンタクト使用上の注意などを見たり、矯正視力の調整などをして、一先ずコンタクトを外すことに。

 

2.ここからは自身でやるということで、コンタクト取り外しにチャレンジ。

やり方は

①上瞼を左手で、下瞼を右手の中指で開く。

②右手の人差し指と親指をくっつけた状態で目に近づけ、コンタクトをつまんで取る。

とのことでしたが、全くうまくいかない。

外すのにこんなに手間取っていたら、装着はもっと大変なのでは?
どんどん疲労がたまってきます。
でも近くで眼科の人がずっと見守ってくれているし、申し訳なさでいっぱいなのでとりあえずトライ&エラーを繰り返します。 
……何とか外せました。と言っても、指でコンタクトをつまんだ感触はなく、気が付いたらとれていた感じ。

 

3.一応、装着もチャレンジ

この時点で、眼科に来てから1時間半近く経っていました。

「一応、装着の練習もしてみます?」

「…はい…」

やり方は人により場所により様々あるみたいなので割愛します。
ただ一つ言うとすれば、大変だったのは眼を指で大きく開けさせること。
利き手と反対の指を使って上瞼を上から引っ張るわけですが、腕ごと上方に持っていかないとちゃんと引っ張れません。腕を上方に持っていく状態が続くと、すごく疲れてきます。
下瞼も利き手の中指などで下へ引っ張ります。このとき自分の目がぎょろっとするのがわかって、少し怖い。
こんなに頑張って眼を大きく開けさせている。
なのに、レンズを乗せた人差し指が近づくと、瞼は凄まじい勢いの反射神経で閉じようとします。

この時の私にとって、コンタクト(の着け外し)はハードルが高いこと。それは痛いほどわかりました。実際に目はすごく痛いし。
それに、自分のふがいなさにどんどん気持ちが暗くなっていくのも感じました。

「一番最初のステップとして、目薬を真上から点せるように」
結果としてこの日は装着はかなわず、診察料だけ払って帰りました。
眼科の人が言ったように目薬を買って、その後コーヒーショップに入ったのを覚えています。

 

 2016年 1月

  •  年は越して2016年。練習の日々。

年末は「大体の人が当たり前にできることを私はできないのか……」と落ち込みましたが、そうも言ってられません。
極力、成人式までにコンタクトを購入したい…!という思いで一先ず
「成人式前にもう一度眼科に行ってチャレンジしよう、そこでダメだったらやめよう。」と決意。

毎日目薬を差す練習をしたり、

実はセール品を買ったら刺激度の高いもので、染みてしまったので思うより頻繁にはできませんでしたが……。

インターネット検索で<コンタクト ソフト 装着できない>などと入力して、出てきたページを見たりしました。

その中で参考になったのは、
「実際に付けてみる前に(清潔な指で)眼球に触れてみる」
それを練習し、慣れることでレンズを付ける時もしっかり指を向けて付けにいくことができる、とのこと。
そういえば眼科の人もそんなことを言っていたなあ、と思い出しました。

少し不安はありましたが、これもコンタクトを買うため…!
風呂上りに指で眼球を直接触れる練習もしていました。

 

 2016年 1月初旬

  • 満を持していざ眼科へ!(2回目)

成人式当日の諸々が決まっていき、いよいよ現実味を帯びてきた頃。
目薬も50%位の成功率で点せるようになった。指で直接眼球に触れることも大分慣れた。
今行かなければ、他の機会はない!と眼科へ向かいました。

ここから眼科パートその2。

1.今回は装着練習から。

てっきりまた視力測定から始めると思っていたので、内心は「心の準備がまだできてないです…!」と心臓バクバクでした。
眼科の人は前回とは違う人でした。
コンタクト装着液というものを点けてもらいながら、チャレンジ。
以前より指とレンズが目の前に来ている感覚はあるし、最早眼に付いている。
が、ちゃんとくっつかない。指を放すとポロッと離れて行ってしまう。
なぜだ。でも、せめて前回くらいは粘ろう。指を入れる角度を変えたりなど、試行錯誤をしました。
そんな気持ちで数十分後、遂に片方のレンズ装着ができました。

2.その後はスムーズに。

コツをつかみ、もう片方のレンズも装着。
更に眼科の人に他の種類のレンズを勧められたので、そちらも装着してみました。違いは判らなかったけれど、潤いがあるらしいです。
目に慣らせることも考えコンタクトを付けたまま帰ることに。外すときもすんなりできたのでこれなら家でも外せるだろう、という判断です。

3.ソフトコンタクトレンズ購入完了!

2種類の処方箋をもらい、眼科を出ました。そして併設されているコンタクト販売店へ。
後からお勧めしてもらった種類は在庫がなかったようで、付けやすさのあるものを頼みました。両目1か月分を購入。
両目とも同じ度にしたので特に区別はないです。LINEクーポンが使えたのでその場で友達登録をして使用しました。
その後はコンタクト用に人工涙液の目薬を買って帰りました。

前回眼科に行ったときとは打って変わって、清々しい気持ちで帰路につきました。

 

そんなこんなで無事、ソフトコンタクトレンズを購入しました。

また、当初の予定通り成人式でも付けていきました。昔から目が悪かったので、昔よりこの日のほうが同級生の顔がよく見えたかもしれません。

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コンタクトレンズがどうこうなんて人にとってはどうでもいいことのようですが、私にとっては一大事でした。
本当は、2回目眼科に行くとき「これでできなかったらクソダサいのではないか」と思っていたりもしたんですけれど、行ってよかったです。

20歳を超えて、明確に「何かができるようになる」感覚を得られるのは快感ですね。

世の中には努力とか才能でなく、少しの知識とコツで可能になることもあるのだと思いました。 

 

SNSのメッセージで繰り広げられる会話について

お久しぶりです。

また自分の話かよ!って感じですが。

 

最近自分の 空気の読めないことにがっかりします。

この頃ひしひしと感じるのはLINEなどSNSのやりとりにおいて、ですかね。

春休みになって学校で会う機会が減ったため、LINEのやりとりが増えました。

 

そういう場で文脈の読めない、または答えづらい発言・メッセージをしてしまいがちです。(そして無言状態へ……)

たいていこういう「あの発言は少しズレていたな」ということは後から気づくので、どうしようもないことが多いです。

ここで新たに追い打ちをかけるようならさらに墓穴を掘ることになる。それも経験則でわかっているので何もできません。

 

やっぱり、そういう面では話すほうが気楽でいいですね。

どんなズレた発言でも即時的な反応がほぼ確実に来るという安心感、相互作用で会話が回る楽しさとでもいうのでしょうか。

最終的にそのほうがメイン活動でもいい成果が得られる、みたいなことも聞きます。

 

しかし私としては「話すことのできる時間=超貴重な時間」なのでズレた発言で話題をズレさせたくない!

という思いも、未だ存在します(前述の楽しさや最終的な成果も実感してきたので、以前よりは少なくなりました)。

 

案としては、文字情報からなるSNSメッセージでも話しているように、もっと密なやりとりをしたいですね。

SNSこそお互いの時間の制約なく会話できるわけなので(タイムラグがあるので瞬時的な面白さの共有?などは難しそうですが)。

 

別に文章で相手の真意がわからなくても、それは普通に話しているときみたいに質問すればいいし、ふと気になることが出てくればその場でスマホでアプリを開いて発言すればいいし。それらにより話がズレても、遡れば会話は記録されているので取り戻すこともできると思います。

もっと普通に話しているときみたいに、気軽に会話を回せないかなあと思います。

 

ただここまで書いた話はは集団の雰囲気(グループLINEならその雰囲気や役割)にもよるので、変えるならSNS上の雰囲気から変えなきゃいけなさそう。難しそうですね。

また、それぞれの集団の話だったので具体的なことは何一つ言えてません。

 

もちろん相手と顔を合わせて、声を聴いて、場の雰囲気を共有しながら何かをすることも楽しいし大事だと思います!

じゃあそれをSNSでもやりたいなあ、という想いがあります。実際にそんな感じの集団もありますよね(スクショをたまに見ます)。そこはどういう経緯でそうなったのか聞いてみたいです。

流行ってるスナップチャットとかもそんな感じなんでしょうか。

 

とりあえずLINEでは、ちょっとした文でも長文っぽく重たく見えてしまう現象を何とかできるようになってほしいですね。

ハードのスマホが大きくなるか、ソフトが吹き出し枠幅を長くしてくれるか、サードパーティアプリが出るか(可能かは置いておいて)、でしょうか。

 

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正直、自分の空気の読めないことからここまで話が発展したのは予想外でした(笑)。

でも以前から少し思っていたことだったので、繋げられてある意味よかったです。

 

明らかに空気の読めなかったことは反省しつつ、ある程度は空気が読めなくてもどんどん発言する方を取りたいですね。

 

20歳ということ「20歳~twitter供養でちょこっと振り返る~」

今回は

今週のお題は「20歳」です - はてなブログ

てことに便乗して、軽めに20歳の最近を振り返ってみたいと思います。

私は現在20歳ですが、自覚とか全くないです。しかしそんな事言ってる間に時間はビュンビュン過ぎ去っていく訳で。

ちょうどいい機会なのでちょっと振り返って残りの20歳を少しでも有意義にしようかなと。 

 

題して 「20歳~twitter供養でちょこっと振り返る~」
 

Twitter。そうツイッター、今は誰もがやってるSNSです。

私もやっています。楽しい、癖になる、スマホを手に取ると条件反射で起動するツイッタアプリ。

ただ私は「なんでも呟く非リアルアカウント」だけで楽しんでいる、そういうタイプです。

そこには「大学で毎日のように顔を合わせている人とTwitterまでもつながるのはどうなんだろう…」という考えがありました。ちなみに現在は違います、今更つながるのも無茶があるなあ…という諦め(恥ずかしさ?)で所謂「リアルアカウント」はありません。

 

しかしそんな私にも一時的な気の迷い(笑)はあって、一瞬だけ「リアルアカウントのようなもの」を稼働していた時期がありました。総ツイートは8、フォロー、フォロワーは0(笑)。放置する予感が見え見えで悲しいので消しました。

その8ツイートをコピペして見ながら振り返ってみます。

Twitterに対してそこまで真面目に取り組んでいないので軽め、軽めに。

 

 

▲そのアカウントのプロフィール画像に設定してた写真。特定は避けつつ、無難なものを…と選んだ結果これくらいしかなかった。

 

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26 Nov 2015 

匿名ダイアリーがスマホだと入力し辛いのでこちらで
 26 Nov 2015 

アウトローな人もやりたい事が出来たり、一生懸命になってる事があったら正直になっていいんじゃないかな。外から見ると少しクサく見えたりするけどお互い様ってことで。
はてな匿名ダイアリーはムシャクシャしてバーッと書きたいとき使います。匿名ならではだと思います。そう、スマホだと入力しづらいんです。専用アプリでもできてくれれば…と思うけどそこまでするものははてなアノニマスダイアリーたる価値を下げるような(?)

 

◇2番目のツイートは今も思うことですね。

もう何度でも言いますが、私は高校生の頃・大学一年目の頃にもっといろいろしておくべきだったと後悔しています。ただそういうことは言っても殆ど意味なくて、体験してみて初めてわかることです。だからしょうがないといえばしょうがないです。

でもだからこそ他の人、アウトローな人(私からそう見えるだけで本当は既に分かってるかもしれないですが)には少しでも早く気付いてほしい。

 

27 Nov 2015

「自分を出す」「自分の好きな事を見つける」って一見凄い自分自分してるなと。でもそれが案外他人の為になるんだろう。と思っています。
◇あれ、自分はこのこと11月時点でわかっていたのか。「でもそれが案外他人の為になるんだろう。」の部分ですね。

まだ自分の好きなことは探し中ですが、「自分を出す」ことは試行錯誤してます。それもコミュニケーションにおいて他の人の安心にもなり得ると信じて。

一方で自分勝手に空回りしてしまうこともあるなと反省しつつあるので、やっぱり試行錯誤ですね。うーん、言葉がうまくまとまらない。

 

30 Nov 2015 

当たり前だけど他の学部にも"ヤバイ奴"っているんだなあ
30 Nov 2015 

非常に人間出来てる人に無視されたり蔑ろにされてしまうとああ自分はこの人のドラマに重要ではないのだなと感じて悲しくなる 
30 Nov 2015

こういった感情は小、中学校の頃に多く感じていたが、この頃再発してしまった。
30 Nov 2015

流されない強い自分を持っていれば、こんなに虚しくなってしまうことは無いだろうかな。ビジネスライクな関係と割り切れるのかも知れない。
 ◇あー、あるある。今でもたまにぐぬぬってなってしまう。

でもこういう「非常に人間出来てる人に無視されたり蔑ろにされてしまう」のって自分の対応とか表情を客観的に見るとそりゃそうだって感じなんですよ。

自分の挙動が不審だったり、元気がなかったり冷めてたりしたら相手もきっと元気をなくしたり冷めたり、悲しくなります。それを私が見て結果的に「無視された!蔑ろにされた!」って思うだけのこと。

それだけなんだなあって、自省の意味も込めて。

「好きなことを見つける」は4番目のツイートの「流されない強い自分を持っていれば、こんなに虚しくなってしまうことは無いだろうかな。」的な気持ちも要因としてあります。

 

5 Dec 2015

前撮りおわ。こういう改まった感じで家族にしみじみされるのになんとも言えぬ不快感を覚えてしまうのだけど、自分だけだろうか。 
 ◇これは自分でも何といったらいいかわからないのですが、こんな風に不思議な不快感を覚えることがあります。

大抵は改まって「自分が生まれて何か生きてきたなあ」と感じる時同時にぬるっと沸き起こります。

小学校高学年くらいの頃からでしょうか。不快感だからいつかなくなってほしいですが完全に忘れてしまうのも寂しいような…そんな感情です。

 

◇◇◇◇◇◇

 

いかがでしたか?

Twitterってやっぱりその時の頭の中をパッとアウトプットするのにちょうどいいんですよね。

少し経って見返すと、記憶から追いやられてた当時の気持ちとかを思い出したり。

 

よく見たらこのツイートは11月~12月の超短期間でした。

今度は20歳上半期(?)の7~9月くらい思い出してみたいですね。その時期「自分を分析しよう!」みたいな学校の課題があった気がするので引っ張り出してもいいかも。

 

 

そういえば真面目な振り返りは「2015年の振り返り」と題してしていました。 

ka-muchive06.hatenablog.com

 

上のリンクのように大きめの振り返りもいいけど、細かく振り返る方も1つ当りの負担少ないし、思い出しやすいし良い所が沢山ありそうです。

本当は両方やるのが一番なんでしょうが、難しいところです。