20170401
4月が来た。新年度だ。
よく1月は行く、2月は逃げる、3月は去ると言われる。確かに1月は行き2月は逃げた。
一方就活解禁後の3月はゆっくりとしかし確実に歩んできたようだった。とは言いつつ気が付いたときは3月中旬と最終週で、結果的に去っていってしまったのだが。
エイプリルフールで土曜日だったので思う存分4月1日のおふざけと休日を楽しんだ。
具体的には半日ほど寝ていた。
何かに対しとても申し訳ない気持ちになりながらも、横になり布団をかぶれば眠いものは眠い。
だから眠る。
こんなにひどく申し訳なくなる対象はここまで育てた親か、過去の自分か、未来の自分か、はたまた今の自分なのか。
さすがに寝過ぎて起きると身体を痛めたり、頭が痛くなったりする。と、同時に虚無感もある。寝ていたこの数時間をもっと有意義にできたのではないかと。
そも有意義な時間とは、何だろう。休日に眠る、これはこれでとても贅沢な時間の使い方なのではないか。何より私は眠ることが大好きだ。 このブログのタイトルを見てほしい。
うん、眠ろう。
やはり、休日くらいは思う存分寝たい。 その時間分のタスクを他の時間に持ってくる責任は持つべきだろうが。
思う存分寝るとして、悲しいのは長時間寝過ぎたときのガッカリ感が凄まじいこと。それに朝方に寝ると明らかに調子が悪くなるため、睡眠時間の加減と就寝時間は考慮したい所存だ。
20170401
20170331
さすがに前日までのどっちつかずな怠惰ぶりはいけないと思い、この日は予定通りに行動した。 まあ説明会行くだけなんですけど。
(ちなみに書くほどのイベントではない。これは日記である。)
二つ目の会社の建物から出たら、結構な雨。
革靴が濡れるなあと考えながら折りたたみ傘をさし歩いた。本当は安い路線を使うために少し歩いてもよかったのだが、雨だからという理由で会社まで来た道へ進んだ。説明会参加者の殆どは建物の反対側の道へ歩いていったようだった。
移動時間で昼食をとる暇がなく、昼以降は腹が減って仕方なかった。
そこで帰りがけに丸亀製麺で釜玉うどん+かしわ天を食べた。 本来、自分的にやり切った日に釜玉かしわ天をキメることにしていた。が、今後そういうときは面接後などであり、食べる気力もないだろうと判断しいつもの丸亀に直行した。
久しぶりの釜玉うどんに天かす、ネギ、唐辛子、それにダシ醤油のコンボは変わらずうまかった。かしわ天は揚げたてに遭遇したようで、おいしいのは勿論だが、なぜだかすごくすごく感動した。
そういえば昔、給食に出てきたプルーンを食べていたら「なんかグルメっぽい(ので変)」と言われたことがあった。ただ手を汚さないように丁寧に食べていただけだと思うのだが、当時はそれなりにショックを受け今でも記憶に残っている。
この日もうどんを啜りながら、今も食べるのが早くないのに感動して食べているから変に見えるのかもなあという考えが頭によぎったが、よくない幻想なので無視した。
食べている途中で同じカウンターに人が来た気配を感じたが、私が食べ終える前に早々に食べ終え、去っていったようだった。
後から見るとその人が丼を置いたであろうスペースは移動できる箸立て・調味料置き場に占められており、ものを食べるスペースとしては狭くなってしまっていた。私が移動させた訳ではないが、少々狭苦しい思いをさせたかもしれないと申し訳なくなった。
帰宅し、適当に時間を過ごしていたら日付を越えていたため、各サイトやゲームのエイプリルフールを見てまわった。次の日は休むと決めていたため、心が軽い。
そして、4月が始まる。
20170331
20170330
就活生の朝は早い。後に書いたサークルの同期との話で、「説明会10時スタートは早い」という認識が一致した。よかった。
午前の説明会を飛ばすのは折り込み済みだったが、午後一の予定まですっ飛ばしてしまった。
自分にあまりにもがっかりしてTwitterの公式アプリを消した。
面倒くさがりなのでブラウザから見ることはしない、ので大丈夫だと思う。
昨日の日記を今日書いている時点で先が思いやられる。こういう所だよ。
この日はサークルの送別会だったので15時頃重い腰を上げ家を出る。
説明会に行く訳でもないのにスーツを着てきた。
理由は服を改めて用意するのが面倒だったこと。3月1日以降、外出はいつもスーツだったため私服の感覚が麻痺していた。
それと、サークルの人達への見栄。とりあえず説明会に行ってきたこと、もしくは説明会にも行かずぐうたらしていたが面倒だったためスーツにしたことをみんなに言いたかった。
普通に送別会をした。懐かしい顔の先輩、就活生の顔になった同期、後輩達。正直会って話すことが久しぶりすぎてふわふわした気持ちで過ごした。
解散後、しょうもなく心がつらくなった。
サークルの人達は皆いい人ばかりだが、この日この時はどこか馴染めなかった。
話し方を忘れて、とか 精神的に疲れて、とか 理由は色々と付けられるが、とにかくうまく話せなかった。前はもう少し誤魔化さずに話していたと思うのに、とにかくだめだめで、その事実にこの先社会に出ることを考えて自分で絶望した。
今まで私が知らなかったことをみんなが当たり前に知ってたと発覚したり、「そういう」関係を匂わす話をメインにし出したり、様々なことがショックだった。
サークルは私にとって少なからず居心地のいい場所だったのだが、いよいよそれも終わりと言われた気分だった。 そもそも始まってなかったのかもしれないが。
ひどく気分が落ち込んだのでなぜ生きるのかとかまで考えた。
とりあえず思い出したのはTwitterで「また会って話そう」と声をかけてくれた人や、ちょっと就職できるかどうかの不安を話したときに「あなたなら大丈夫だよ」と言ってくれた人達だった。大丈夫かはわからないが、その気持ちは嬉しいと改めて思った。
20170330
缶コーヒーがもっと美味しくなれば世界は平和になるのでは?
なんだかブログの投稿も久しぶりです。
以下の文章は9月末くらいに9割書いてたのですが投稿されず、下書きに眠っていたので掘り起こしました。
缶コーヒーへの愛を綴ったポエムです。
-------------------------------------------------
「だって缶コーヒーって、まずいじゃない」
家やカフェでは昼夜問わずガバガバコーヒーを飲む母。
そんな母にコーヒーを飲み始めた私が「缶コーヒーは飲まないの?」と聞いた矢先出てきた言葉だった。
確かに、缶コーヒーの味はお世辞にも美味しいとは言えない。
ぐわっとくる金属の味。普通のコーヒーの"それ"とは何か違う苦味……とも言いづらいえぐみ。
あと蓋付き容器のものはどう足掻いても鞄の中で洩れる。借りた本、プリント、手帳にポーチとあらゆるものが汚れてしまう。
一方で私にしてみれば「マズい」までは達しない、なんだかんだ言って出先では毎日飲んでしまっている。
つめた〜い缶コーヒー、駅の自販機で130円。
あたたか〜い飲み物が自販機に増え始め、価格感覚が麻痺してくればホットを(余談だが、ホットの方が缶コーヒー特有のマズさが幾分かマシになってる気がする)。
スーパーならば一本85円程度で買えることを考えると馬鹿みたいに高い。
しかし朝に地元駅で、乗換え駅で、都内に向かう電車の数分の待ち時間。
ホームの自販機に並ぶ数種類のプレーンもしくは微糖の缶コーヒーの中から、メーカーの違いもわからず気分で選び、Suicaで購入。その場で蓋を開ける。
あー "ぐわっ"ときた、これだこれ。やっぱり美味しいものではないなー なんて思いながら電車が来る前に飲み切る。
それが私にとっての缶コーヒーだ。
将来私がそういう開発力を身につけることができたら自分でやりたいくらいですが、一消費者としてそんなに待てない。
コーヒーショップのテイクアウトやコンビニコーヒーもいいけど、前者は値段がやや高いし、都市部の店は人が行き交っていて店頭で買いたくない。
などとぼんやり考えていたらKIRINがこんなこと始めていた。昨日TVCM見てびっくりしたが、是非どんなものか味わってみたいものです。
http://www.kirin.co.jp/products/softdrink/100man/
この動きに刺激されて、他の飲料メーカーも企業努力を重ねてほしい。
5年後の自分へ
ブログを書くのもなにやら久しぶりになってしまい、気がつくとブログを始めてから1年経ちそうだ。
去年は大学二年目なりの授業とサークルの忙しさと、不全感と人生への不安を持ちながらもなんとかやっていたんだと思う。
今は、それなりの忙しさと迫る就活への不安、相変わらずの不全感に、人生へのあきらめと言えるような気持ちを抱きゆっくり歩いている。
この人生へのあきらめは決してネガテイブな方向のみでなくて、
「今後もなるようにしかならないし、できることをすれば相応な場所で生きてはいける(だろう)」というやや前向きな気持ちととらえている。悪く言えば自分の限界を決めてしまっているのだが、どこかで一旦自分の能力を決めないと落ち着くところにも行き着かない、と思う。
余談だが「あきらめ」の語源は「明らかにする」なので、何ができて何ができなくて、そして人に任せるのか明らかにするという意味でも決して後ろ向きばかりではないらしい(出典の書籍を忘れてしまったが、見当はついているので追記する。)。
5年後の自分はどうなっているのか見当もつかないが、不慮の事故や病気がない限りまだ生きているだろう。
今学校で取り組んでいるような雑誌作り、物書きや編集にかかわる仕事をしていたら学生時代の私も浮かばれるだろうが、別にこだわりはない。
正直今の私からしたら、何かしら仕事しているだけですごいことだと思う。仕事をしていなくても、あれから5年生き続けたこと自体がすごい。
まあなので、これからも何か気負ったりせず楽しく生きてほしい。
懸念点と言えば、親の生きる理由が私になっているんじゃないかと気掛かりではあって、そんなうちに私の生きる理由も親のためになってそうなことだろうか。
現在の持論としては、残念ながら人はいずれ死ぬので(それまで親が私に想いを馳せるのは勝手だが、)余生はのんびり自分のおいしいものを食べたり好きな事をしたりして感じる幸せを噛みしめ過ごしてもらいたい。多分その時期私は私で仕事の上にやりたいことが沢山あるため、あんまり構うのもよしたほうがいいのではというのが今の考えだ。
あとブログもろもろにかんして、私は暗黙知が真っ当な形で世に出たときは共感・評価されるという可能性を信じている。それは「こんなのあったらいいな」が商品化したときかもしれないし、うまく言えなかった不安の愚痴文章に対しいいね!やスターが付くときかもしれない。つまり言語化・明文化するのが難しい(或いは面倒くさい)ような気持ちが文章になっているに価値を感じる。なので、私はそういうことが沢山できる人間になりたい。 これは今の気持ちなので5年後には変わってるかもしれないが。
段々長くなってまとまらなくなってきたのでこれくらいに。5年後は頭の中で考えている(話している)ことが出力できる技術が発明されていたらいいなあ。
はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
もっと自分なりに生きるのはダメですか?―「普通の大学生」になるのは、やめよう
風邪をひいたことがきっかけ?
風邪を、ひきました。
それも寝込むような風邪です。軽い風邪で2・3日鼻水が止まらない、なんてことはあったのですが(それでも年に1度くらい)、寝込んだ記憶は中学生の頃以来ないので、多分5年以上振りになります。
結果大学のほとんどの授業は休み、家で休息をとる数日間を送りました。
無駄に健康体な私にとって、この事態は非常に珍しいことでした。
病状が回復した今だから言えることですが、この状況はある程度現状を見直す機会になったと思います(もちろんほぼ寝ていたので休む意味以上ではないですが)。
私の現状、というのは所謂「普通の大学生」のようなこと。所詮「ようなこと」なのでアレなんですが。
家から大学への通学中以外、人と居る予定が詰まっているような。
一週間で毎日家から東京へ出ているような(私は東京まで1時間強はかかる地域に住んでいます。また、高校生時代は土日のどちらかは家で一日中ごろごろしていました。)。
例えば午前中から夕方まで大学の講義に出る、昼休みと放課後はサークル活動に精を出す、休日はバイト、たまに就活のためのイベントに足を運ぶ。などなど。
私は入学当初からもともとこの「普通の大学生」像に疑問を感じていました。
- いつも人と居たら自分の時間が取れないのでは?
- 一週間毎日外出していたら疲れて病気になるのでは?
- そもそもそんな過ごし方は私には合わないのでは?
しかし、現実を見てみるとこういう大学生は周りに多いことがわかってきました。
同時に、そういう大学生は毎日が楽しそうで、勉強*1にも励んでいることも。この事実は非常につらいものでしたが、上を見てもキリがないため自分の伸びしろを伸ばすしかないと思いました。
「普通の大学生」は普通の大学生たる日々の行動をしているため、持つべきものを持っています。無いものねだりかもしれませんが、私にもそれらがほしいという願望があります。
それなら「普通の大学生」の行動を一丁真似るか!健康は無駄にあるし!
――と私が心から思ったかどうかはさておき、学年が上がると適当に人と何かをする機会は増え、土日も学校に来ることもありました。
確かに、そうなんです。
人と居て、話したりしながら何かをするのは楽しかったです。外に出ると見られている感覚があるのでやるべきことが片付きやすかったです。
更に、そうして詰まった予定が次々と迫ってくる感覚はドキドキと、ワクワクがありました。
そんな感じで暫くエキサイティングに過ごしていましたが、やはり疲れはありました。胃腸は一年前に比べ悪くなったと思います。帰宅が夜遅く夕食も遅くなるためです。
大学3年生になると、その傾向は加速していくようでした。
サークルでの役割がドンと増えたり、就活に向けて情報がバンバン出たり単純にやるべきことが増えたんだと思います。
そこで現在(先週)の、風邪をひいたときに至ります。キャパオーバー、―自分で処理できる範囲・規模を越えてしまった―が来たのでしょう。
大学生活、本当にこれでいいの?
そうしてもう一度、風邪の頭で自分の日々の過ごし方について考えてみました。
自分はこのまま、こういう過ごし方でいいのでしょうか?
結論から言うと、「普通の大学生」の生活はやはり私には相容れない部分があるのだと思います。
この時期*2に風邪で3日間寝込み、その間のあらゆる予定が潰えたことは非常に痛手です。手っ取り早く言うと、予定のアポを取り直したり大学の勉強を挽回することに苦労しました。
それはつまり、何かがあったときにどうにかする時間、言うならば予備日を持っていなかったということです。
人と何かをやっていこうというときに予備日を持たないのは、ダメでしょう。
自分に責任があることでバカになるのは結構ですが、他の誰かにも影響が及ぶことは余裕をもって賢く取り組むべきだと思いました。
よって一週間毎日人と会う予定があるのは控えて、一日は予備日を設けたいです。
この予備日には上記以外にも様々な意味づけがあります。
- (課題・予定キャンセルなど)何かあったときにどうにかする日
- 寝溜めの日
- 家にこもることで精神的に休む日 など
また、大学の2年間を通し自分の中で確立していたことが崩れていく――そんな違和感がありました。
それは下記のようなことです。
- 授業は全部ちゃんと出る、ましてや好きな授業は全力で。
- 自分のためにもレポート課題には時間と労力をかける。
- たまに一人で突拍子もなく気になる展覧会や映画を観にいく。
- ネット記事を片っ端から読む。
- 電車内ではkindleで本を読む。
- (週一日は家でよく休む。)など。
なんてことのない日常の些事ですが、こんなことでも私にとっては大事にしたいことです。
先週体調不良になるまでこれらのことをしている場合じゃなかったり、眠気が意欲に勝てなくなったり(講義中はよく気を失っていました。)で、ないがしろになっていました。
しかしそれはやはり、精神的にも厳しい。
ダメでした。レポート課題を軽くこなしている自分に気づいたとき、自分がこれまで築き上げたことがガラガラと音を立てて崩れていくようでした。自分で見ていられませんでした。
人は絶えず変わるものだろうけど、私はこれらの生き方は自分でも好きだから、変わりたくない。そう強く思いました。
もしかして、もっと自分が生きやすいように生きてもいいのでは?
前述のとおり、私は「普通の大学生」が持っているようなものにあこがれています。
それは、人とのつながりの広さ・深さだったり、楽しいこと・つらいことをたくさん体験したという経験だったり、若さだったり、鬼忙しいことへのドキドキ・ワクワクだったり……。多分まだあります。
でも、それは「普通の大学生」のような生活をしていなければ手に入らないのでしょうか?
今あげたものは本当に全部、自分のもともとある生き方を殺してまで手に入れたいのでしょうか?
そんな発想が出てきたとき、少し肩の力が抜けました。
どんなふうに人とかかわって、予定を入れて、実行していくのか?、というような細やかな生き方は自分で試行錯誤していいのだと思います。
一つのやり方があまりにもつらかったら、他の方法を模索すればいい。
ロールモデル、つまりお手本になるような像は持っていて損はないです。
しかし自分のなりたい方向は、自分で程度を調整していいのだと思います。お手本自体になる必要はないし、実際なれっこないことは誰でもわかっているはずです。
「普通の大学生」になるのは、やめよう。
話をする友達がほしい
私はもう所謂リア充にはなれないのだろう、と大学生になってから確信した。
なぜならそれでもいいやという諦め、緩やかな満足感があるのだ。
でも友達はほしい。
私が今年に入ってから5回くらい言ってる「成長し合える仲間」っていうやつだ。もっとざっくり言うと何でも話せて、ノリでご飯行ったり遊びに行ったりして、方向性が合致したら一緒に何か作り上げたりして(身近にモデルがいるのでこんなだと感じているだけで、自分だったら前二つくらいで十分そうではある)。
かつてはリア充のこととおんなじで、もう私はそこまでの友達はほしくないし、そこそこ一人で生きていくんだろうと思っていた。たけど、そうでもなさそうだ。
具体的行動に移す気力はないけど、友達がほしい。
その瞬間になるともういいやってなってしまうけど、友達がほしい。
そもそも私は高校2年生の後半から「友達をつくるのは、楽しさに対して苦労が大きすぎる」と判断して進んで一人を選んでいた。超雑に言うと神経質な性格だから人と仲良くするのは常に何かを考えながらで、楽しさより辛さが勝ってしまう。
そのときの判断はある意味正しかった。高校3年にもなると受験でろくに行事もなくなるので「はーい、今から二人組でこれしてもらいますー」
はい、二人組つくってーとは (ハイフタリグミツクッテーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
もなく、昼食を早弁して昼の長い休み時間は図書館で勉強をしていたし、そもそもクラスメイト同士の会話も減っていってたから一人でいることに負い目を感じることもなかった。自由で気持ちがよかった。まるでやりたくもない文化祭の準備が終わってさっさと帰れるときのような、解放感。自分の好きな風に動けることがこんなに心地いいなんてしらなかった。しかも、それに対して先生やクラスメイトは何も咎めなかった。
もちろんたまに寂しくなることもあるにはあったが、その度に「今から本気で友達をつくりたいと思うほどの勇気はない」と思い直し、諦めていた。
大学に入ると年中固定のクラスはなくないので、気が楽だった。少ないながらも普通に昼休みを過ごす友達はできたし、サークルでもなじむことができたと思う。
高校2年生の頃あんなにもがいて空回ることすらできず、引きつった笑顔を見せながら居場所を探していたのがバカみたいに楽だった。その後空回りサイクルを回す人と化すが、それはまた別の話。
友達がほしい。
なぜかと言うと多分、すごく話をしたいんだと思う。
そのために今の大学の友達でももっと物理的に長く一緒に居たいと思う。他の、知り合い程度の人でもその話もっと聞きたいなーというのがあるので仲良くしたいと思う。
思うんだけど、なぜか「ここだ」と思う瞬間では冷めてしまう。
「あなたも行く?」と言ってもらったとき。「ここ行きたいなー」という話の流れになったとき、エトセトラ。
何でこうなっちゃうのかを考えると、よくわからない。本当にめんどくさいとか嫌だ思ってるのか、それとも意地を張ってるだけなのか、勇気が出ないのか、恥ずかしいのか。
あとやっぱり人間なので「ちゃんと友達がいます感」、社会的価値がほしいんだろう。ただそういうこと考え始めるとコネのために友達作るの?という思考回路が表れるのであまり気にせずに過ごせたらいいなと言うのが現在。
きっとこの辺の、友達関係のことも結婚のことと同じで、本当にしたいと思ったら方向性を決めて恥ずかしいとか大変とか関係なく特攻するしかないのだろう。普通にしたいと思ったら相手に良く思わようとせず人に接することが近道、みたいな感じなのだろう。
この手の話題は一時期(今も)ハマって本をちゃんと読んだら面白かった。そういえばとある対談で見たことだが、ホモソーシャルな価値観を持っている方は結婚することを諦めれば結婚できる。そうだ。
こうして書いてたら本当に友達がほしいのかもどうかわからなくなってきたけど、
仮に今そこそこ知ってる人から「飯行こうぜー!君のおごりねw」ってメッセージがきたら尻尾振ってついてくるのでそんな感じなんだろうと思う。
ぶっちゃけ1回や2回のおごりで存分に語れるならおごるよなあ……ただどっちにしてもそこまでのハウツーが謎すぎるのでどうすればいいのか。
「話がしたい」から欲求が始まってるのって高齢者かよって感じですがよろしくお願いします(?)。
久しぶりに書いたブログがなかなか見る人を選びそうな感じになってますが、ここではいろんな文体を試したいとも思ってるのでこれはこれで。