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一に睡眠、二に睡眠、三、四睡眠五睡眠

漠然とした不安を持つ自分と向き合いたい-朝井リョウ「何者」を読みました

こんにちは。

最近学校がスーツの人々で溢れています。

就職活動が始まり、学校で合同説明会が連日開催されているようです。

それについて思うことは様々ありますが、一つ、大きなものは「私は就活ないし就職ができるのだろうか」ということです。

私は来年一般的に就活する時期になりますが、自分が就活しているイメージが湧きません。

ぴしっとスーツでキメて、自己分析をしたり、OBOG訪問をしたり、会社説明会に参加したり、面接をしたり……等々?

それすらもわかりません。

イメージできていようが、いまいが就職すると決めたら就活は避けて通れないでしょう。

漠然とした不安が募るばかりで、リクルートスーツの人を見るとそれを思い出してしまうので辛いですね……。

 

朝井リョウさんの小説「何者」を読みました。

読んで、いろいろと思ったことがあったので書きます。

最初に言いますが、ここではネタバレはしません。

しかし文章上内容の要約程度はしています。また、Amazonの内容紹介の引用をしています。

 

もともと学校の上級生に薦められたものでした。

ふと思い出してAmazonのページに飛びましたが、上記の通り就活に関して不安ばかりなので紹介文の「就活を題材としている」を見て購入を一瞬躊躇いました。

 

内容紹介

就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから――。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて……。直木賞受賞作。

 

しかし、好奇心は不安に勝つ。

レビューでは「twitterで牽制しあう様子が描かれている」等と書かれていました。「twitterで」。

「牽制」。

これらのワードが私の好奇心にクリーンヒットし、購入に至りました。

すごく心当たりがあったんだと思います。

 

暫くの間は資格勉強やらなんやらで放置していました。

それらが終わって、開放感で小説が読みたい!となる。

kindleを開く。そういえばこの小説も買ったな。読もう。

という流れで読み始めました。

 

一つ、

刺さる。

当初の小説読みたい欲は1/3読んだ程度でいっぱいになりました。

 

刺さったのは4つ程。

詳しくは書きませんがなんとなく書いていきます。

それも自分で探しながら読みたい!という方は飛ばしたほうがいいかも。

 

 

 

この小説の登場人物の多くはtwitterを使っていて、その投稿内容も本文に挟まれます。

その世界を生きている彼らが、140文字という限られた文章の中で伝えたいこと。

伝えたいけど、書かないこと。

書かないけど、大事なこと。書くけど、大事じゃないこと。

大事だから書くけど、短い言葉に加工すること。

SNSでは、短い言葉で自分をアピールする」という点に対し、主人公は一つの考えを持っています。

その後紆余曲折あって、この点に関しては一つの結論のようなものも示されます。

その考え方がいいのか悪いのか、わかりません。

でもきっとそれが真実なんでしょう。

私もそうですから。

ネタバレを割ける余り何だかふわっとしてしまいましたが、この点は特に過程も含めて読んでほしい部分です。ご理解ください。

他の本の受け売りですが

自分の気持ちをネット上に書こうとすると、普段から見られることを意識して気持ちを感じてしまう癖がついてしまいがちだそうで。

ブログを書いている身としては非常に刺さるのですが、文章を書くことも楽しいから続けている次第です(刺さりっぱなしで自分の中で咀嚼できていないことも感じているので、一度考えたい)。

 

  • ②会話を交わしていく上でのあれこれ。

SNS上においても、現実においても。

「明言はしないけどこの人は自分の為に、きっとこう言ってほしいんだろう。なんて奴だ。」みたいな(本文の引用ではありません)。

思惑が交錯する感じ。

当に「牽制」。

私はこういうことを考える自分があまり好きではなかった。

一時期、すごく悩んで、考えた記憶がある。

だからこそ「他の人(登場人物)も同じように思考を巡らせたりするのか?」と興味が湧いた訳ですが。

 

  •  ③「何者か」になろうとしている様子

この小説の登場人物の多くは「『何者か』になろうとしている」と描写されています。

あくまで主人公視点で、ですが。

私も何者かになろうとしていたんだと思います。

所属でアイデンティティーを意識したり、振り返ると訳の分からないマウンティング発言をしていたり。

でも私は脱した、と思っています。嘘です。

今も少し、何者かになろうとしていると思います。

しているけど、そういうのは空しいとわかっているし、結局意味はないから他のことに労力を割いたほうが有意義だし……ネタバレになりそうなのでやめます。

読んでいてこういう思考回路だったんだな、と。

理解はしているけど考え方に癖がついていることを再確認しました。

 

小説の終盤は力強さがありました。

ジェットコースターで例えるなら、一気に上り詰めて、頂点に到達する。

そしてエピローグは緩やかに進行。緩やかなまま終わるので、地上まで辿り着いていない。

もっと登場人物のその後を読みたい。

この世界の「模範解答」を知りたい。

就活がテーマだからこそ、より強くそう思ったのかもしれません。

でもきっと、「自分で考えろ」ってことなのでしょう。

登場人物のその後は私のその後ではないし、正解でもないし。そもそも正解かどうかなんて誰にも判らないし。

そんなこと、誰でもわかっているはずなんですけれどね。

 

  • ④「そのステージに上がってすらいない」こと

私は小説を読むときに、どうしても登場人物と自身とを比較してしまいます。

そしてこのキャラは自分に似ている、似ていないと考えてしまいがちです。

でも、どの小説でも一貫して思う。彼らとは違うところ。

「私はここまで激しい気持ちをぶつけられるほどの行動をしていない。」

私はまだそのステージまで上がっていない。上り方もわからない。

「怒られたり、泣かれたりしてもその反応がもらえるだけいいじゃないか。」

といつも思います。

登場人物は自分の気持ちをぶつけます。

お互いにぶつけあって、ボロボロになって、成長していきます。そうしないと物語が進まないから当たり前と言えば当たり前のことですが。

 

この小説でも、主人公は尖った言葉で、激しい気持ちをぶつけられます。

読み終わった瞬間「その部分」についてはあまり感じていませんでした。

なぜなら自分はまだそのステージにすら立っていないから。

尖っていても、ちゃんと考えられたまっとうな言葉だ。ぶつけられるだけ、羨ましい。

しかし、少し経って、毒が回ってきたようにじわりじわりと刺さる。

 

「その部分」こそ「まだそのステージに上がってすらいない」私のことではないか。

確かに主人公は一部では自分の気持ちを出しているが、一部は、違う。

人だから当然だろ、って感じですが大抵小説の中ではスルーされます。

でもこの世界にはtwitterがある。

つまり、少し状況は違うが「その部分」は「私にぶつけられているんだ」と思い始めました。

「まだそのステージに上がってすらいない」。

多分、逃げているのだろうな。

人に不格好な姿を見せたくないから。でも、羨ましい。じゃあやるしかないのでは?

「上り方がわからないから仕方ない」。

わからないなら、聞くか、わからなくても、試しまくればいいのではないか。

結局逃げている。そんな自分はずるい。

未だにじわじわと刺さり続けています。

 

この文脈だと先の「書かないけど、大事なこと」を書きそうですね。

刺さったけど、私はどうするんでしょう。正直まだちょっとわかりません。

自分がずるいのはわかったけど、染みついた動き方を変えるのは難しい。それは私と接している相手も同じだと思います。

試しまくったとして、どのくらいで効果が出るのか(それが就活の時期と重なって、余計に生き辛くなったりしないか)とか、わからないから聞きたいけど、どうやって?とか。

とりあえず「試しまくる」に寄ってみよう思います。

とりあえず現状で。その先はわかりません。

その先はわかったとしても、多分「書かないけど、大事なこと」になりそうです。

書くと自分で意識しすぎて固まってしまいそうなので。

 

 

 

 

 

何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 

いろいろ書きましたが

【就活生は小説「何者」を読め】

ってすごく言いたいですね。

「『何者か』になろうとしている」下りは就活生は特に意識する部分でしょうし。

 

一応年上なので、訂正します。

【就活生は小説「何者」を読んでください。】

もちろん、就活生以外も読んでいただきたい。

話の進行上SNSによく触れる人のほうがとっつきやすい(というかとてつもなく刺さる)と思います。

が、普通に生きている一定年齢以上の人なら何かしら得られるものはあると思います。

 

これも半分他の本の受け売りですが

何の本でもそうですが、なんとなく結末がわかっていても、そこに至る過程の一から十まで明文化されているものを読む。

そこにこそあなたにものがあるかもしれないし、過程を経てきた結論だからこそ気づくことも沢山あると思います。

 

さて、一番最初に書いた私の就活に対する漠然とした不安。

それはどう変化するのでしょうか。もしかすると、変化しないかもしれません。

それでもきっと、やっていくのでしょう。

ここまで書いて、今はそんな気持ちです。

 

それでは、楽しい(読書)ライフをお過ごしください。

 

ソフトコンタクトレンズを購入した(メモ)

2か月程前、ソフトコンタクトレンズを購入しました。
その際(主に装着に)すごく苦労したので忘備録として書いておきます。
最終的に、眼科に二回通って練習をすることで自分で装着ができるようになり晴れて購入はできました。

珍しく「実際にやったこと」の記事です。時系列で振り返ります。

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2015年 春

  • 成人式のためにコンタクト買おう!と思い立つ

私は視力がとてつもなく低いです。裸眼だと階段を下りる足もおぼつきません。

「目に異物入れるの怖いし…」という単純な理由で普段は眼鏡をかけているのですが、成人式という一大イベントが立ちはだかります。

やはり見た目的に眼鏡じゃないほうがいいだろう、しかし裸眼じゃみんなの顔わからない。じゃあコンタクト買うかー…、という風になんとなく昨年四季の予定を聞いたときから思っていました。

 

2015年 冬

  • それから月日は過ぎ、冬期休暇。あれ?やばくない?

コンタクトは店頭や通販で購入もできますが、とりあえず初回なので眼科で処方箋をもらおうという方向になっていました。
自分じゃコンタクトを購入してもきっと怖くて着けれないことも予想済み。
そこでネットで調べたところ眼科では装着練習できるらしいのでちょうどいいや、という思いでした。

さて、成人式は1月です。しかしコンタクトは1回目で買えないとか、慣らす必要があるとかネットで見ました。

「12月中には眼科に行かなくてはならない…!」

年末予定が詰まっていたかといえば、そうでもありませんでした。しかし何かを理由とつけて、眼科へ行くのを渋る毎日…。原因はやっぱり怖いということ。

 

2015年 12月30日

  • 段々理由をつけるのも疲れて覚悟を決めたその日。いざ眼科へ!

 午後2時過ぎに眼科へ。過去何度か眼鏡の処方箋をもらいに行ったところでした。

受付をして、少し待って、視力などもろもろ検査。ここまでは眼鏡のときと同じです。そしてコンタクトの種類を決め、装着と取り外し練習、という流れのようでした。
初めてということで単価の安いソフトコンタクトに。細かい種類はつけ外ししやすいという勧めで決めました。

目の前にすると思ったより面積が大きい。

いままで父のハードコンタクトレンズしかちゃんと見たことがなかったので驚きました。
同時に本当にこの大きさのものが目に入るのか…?という疑念も浮かびました。

ここから眼科パート。

1.とりあえず、言われるがままに椅子に座って眼科の人に装着してもらう。

これが、なかなかうまくいかない。
眼科の人の指が迫ってくるのを見ると、目を閉じようとしてしまう。それでも眼科の人は目を開けさせるしかない。

「目の力抜いてくださいー」と言われ、意識を遠ざけて力を抜こうとはしてみるも、勝手に目は閉じてしまう。
本当に眼科の人(先生ではないし、看護師とは言わないし、何と言うんでしょう。)には申し訳なかったです。
なんとか眼科の人のテクニック(下半分からくっつけて、滑らせる)で装着はできました。
この時点で瞼と目には痛みがじんじん残る。でも、眼鏡の重さがなくても視界が明るい。それはすごい新鮮な感じでした。
ソフトコンタクト使用上の注意などを見たり、矯正視力の調整などをして、一先ずコンタクトを外すことに。

 

2.ここからは自身でやるということで、コンタクト取り外しにチャレンジ。

やり方は

①上瞼を左手で、下瞼を右手の中指で開く。

②右手の人差し指と親指をくっつけた状態で目に近づけ、コンタクトをつまんで取る。

とのことでしたが、全くうまくいかない。

外すのにこんなに手間取っていたら、装着はもっと大変なのでは?
どんどん疲労がたまってきます。
でも近くで眼科の人がずっと見守ってくれているし、申し訳なさでいっぱいなのでとりあえずトライ&エラーを繰り返します。 
……何とか外せました。と言っても、指でコンタクトをつまんだ感触はなく、気が付いたらとれていた感じ。

 

3.一応、装着もチャレンジ

この時点で、眼科に来てから1時間半近く経っていました。

「一応、装着の練習もしてみます?」

「…はい…」

やり方は人により場所により様々あるみたいなので割愛します。
ただ一つ言うとすれば、大変だったのは眼を指で大きく開けさせること。
利き手と反対の指を使って上瞼を上から引っ張るわけですが、腕ごと上方に持っていかないとちゃんと引っ張れません。腕を上方に持っていく状態が続くと、すごく疲れてきます。
下瞼も利き手の中指などで下へ引っ張ります。このとき自分の目がぎょろっとするのがわかって、少し怖い。
こんなに頑張って眼を大きく開けさせている。
なのに、レンズを乗せた人差し指が近づくと、瞼は凄まじい勢いの反射神経で閉じようとします。

この時の私にとって、コンタクト(の着け外し)はハードルが高いこと。それは痛いほどわかりました。実際に目はすごく痛いし。
それに、自分のふがいなさにどんどん気持ちが暗くなっていくのも感じました。

「一番最初のステップとして、目薬を真上から点せるように」
結果としてこの日は装着はかなわず、診察料だけ払って帰りました。
眼科の人が言ったように目薬を買って、その後コーヒーショップに入ったのを覚えています。

 

 2016年 1月

  •  年は越して2016年。練習の日々。

年末は「大体の人が当たり前にできることを私はできないのか……」と落ち込みましたが、そうも言ってられません。
極力、成人式までにコンタクトを購入したい…!という思いで一先ず
「成人式前にもう一度眼科に行ってチャレンジしよう、そこでダメだったらやめよう。」と決意。

毎日目薬を差す練習をしたり、

実はセール品を買ったら刺激度の高いもので、染みてしまったので思うより頻繁にはできませんでしたが……。

インターネット検索で<コンタクト ソフト 装着できない>などと入力して、出てきたページを見たりしました。

その中で参考になったのは、
「実際に付けてみる前に(清潔な指で)眼球に触れてみる」
それを練習し、慣れることでレンズを付ける時もしっかり指を向けて付けにいくことができる、とのこと。
そういえば眼科の人もそんなことを言っていたなあ、と思い出しました。

少し不安はありましたが、これもコンタクトを買うため…!
風呂上りに指で眼球を直接触れる練習もしていました。

 

 2016年 1月初旬

  • 満を持していざ眼科へ!(2回目)

成人式当日の諸々が決まっていき、いよいよ現実味を帯びてきた頃。
目薬も50%位の成功率で点せるようになった。指で直接眼球に触れることも大分慣れた。
今行かなければ、他の機会はない!と眼科へ向かいました。

ここから眼科パートその2。

1.今回は装着練習から。

てっきりまた視力測定から始めると思っていたので、内心は「心の準備がまだできてないです…!」と心臓バクバクでした。
眼科の人は前回とは違う人でした。
コンタクト装着液というものを点けてもらいながら、チャレンジ。
以前より指とレンズが目の前に来ている感覚はあるし、最早眼に付いている。
が、ちゃんとくっつかない。指を放すとポロッと離れて行ってしまう。
なぜだ。でも、せめて前回くらいは粘ろう。指を入れる角度を変えたりなど、試行錯誤をしました。
そんな気持ちで数十分後、遂に片方のレンズ装着ができました。

2.その後はスムーズに。

コツをつかみ、もう片方のレンズも装着。
更に眼科の人に他の種類のレンズを勧められたので、そちらも装着してみました。違いは判らなかったけれど、潤いがあるらしいです。
目に慣らせることも考えコンタクトを付けたまま帰ることに。外すときもすんなりできたのでこれなら家でも外せるだろう、という判断です。

3.ソフトコンタクトレンズ購入完了!

2種類の処方箋をもらい、眼科を出ました。そして併設されているコンタクト販売店へ。
後からお勧めしてもらった種類は在庫がなかったようで、付けやすさのあるものを頼みました。両目1か月分を購入。
両目とも同じ度にしたので特に区別はないです。LINEクーポンが使えたのでその場で友達登録をして使用しました。
その後はコンタクト用に人工涙液の目薬を買って帰りました。

前回眼科に行ったときとは打って変わって、清々しい気持ちで帰路につきました。

 

そんなこんなで無事、ソフトコンタクトレンズを購入しました。

また、当初の予定通り成人式でも付けていきました。昔から目が悪かったので、昔よりこの日のほうが同級生の顔がよく見えたかもしれません。

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コンタクトレンズがどうこうなんて人にとってはどうでもいいことのようですが、私にとっては一大事でした。
本当は、2回目眼科に行くとき「これでできなかったらクソダサいのではないか」と思っていたりもしたんですけれど、行ってよかったです。

20歳を超えて、明確に「何かができるようになる」感覚を得られるのは快感ですね。

世の中には努力とか才能でなく、少しの知識とコツで可能になることもあるのだと思いました。 

 

SNSのメッセージで繰り広げられる会話について

お久しぶりです。

また自分の話かよ!って感じですが。

 

最近自分の 空気の読めないことにがっかりします。

この頃ひしひしと感じるのはLINEなどSNSのやりとりにおいて、ですかね。

春休みになって学校で会う機会が減ったため、LINEのやりとりが増えました。

 

そういう場で文脈の読めない、または答えづらい発言・メッセージをしてしまいがちです。(そして無言状態へ……)

たいていこういう「あの発言は少しズレていたな」ということは後から気づくので、どうしようもないことが多いです。

ここで新たに追い打ちをかけるようならさらに墓穴を掘ることになる。それも経験則でわかっているので何もできません。

 

やっぱり、そういう面では話すほうが気楽でいいですね。

どんなズレた発言でも即時的な反応がほぼ確実に来るという安心感、相互作用で会話が回る楽しさとでもいうのでしょうか。

最終的にそのほうがメイン活動でもいい成果が得られる、みたいなことも聞きます。

 

しかし私としては「話すことのできる時間=超貴重な時間」なのでズレた発言で話題をズレさせたくない!

という思いも、未だ存在します(前述の楽しさや最終的な成果も実感してきたので、以前よりは少なくなりました)。

 

案としては、文字情報からなるSNSメッセージでも話しているように、もっと密なやりとりをしたいですね。

SNSこそお互いの時間の制約なく会話できるわけなので(タイムラグがあるので瞬時的な面白さの共有?などは難しそうですが)。

 

別に文章で相手の真意がわからなくても、それは普通に話しているときみたいに質問すればいいし、ふと気になることが出てくればその場でスマホでアプリを開いて発言すればいいし。それらにより話がズレても、遡れば会話は記録されているので取り戻すこともできると思います。

もっと普通に話しているときみたいに、気軽に会話を回せないかなあと思います。

 

ただここまで書いた話はは集団の雰囲気(グループLINEならその雰囲気や役割)にもよるので、変えるならSNS上の雰囲気から変えなきゃいけなさそう。難しそうですね。

また、それぞれの集団の話だったので具体的なことは何一つ言えてません。

 

もちろん相手と顔を合わせて、声を聴いて、場の雰囲気を共有しながら何かをすることも楽しいし大事だと思います!

じゃあそれをSNSでもやりたいなあ、という想いがあります。実際にそんな感じの集団もありますよね(スクショをたまに見ます)。そこはどういう経緯でそうなったのか聞いてみたいです。

流行ってるスナップチャットとかもそんな感じなんでしょうか。

 

とりあえずLINEでは、ちょっとした文でも長文っぽく重たく見えてしまう現象を何とかできるようになってほしいですね。

ハードのスマホが大きくなるか、ソフトが吹き出し枠幅を長くしてくれるか、サードパーティアプリが出るか(可能かは置いておいて)、でしょうか。

 

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正直、自分の空気の読めないことからここまで話が発展したのは予想外でした(笑)。

でも以前から少し思っていたことだったので、繋げられてある意味よかったです。

 

明らかに空気の読めなかったことは反省しつつ、ある程度は空気が読めなくてもどんどん発言する方を取りたいですね。

 

20歳ということ「20歳~twitter供養でちょこっと振り返る~」

今回は

今週のお題は「20歳」です - はてなブログ

てことに便乗して、軽めに20歳の最近を振り返ってみたいと思います。

私は現在20歳ですが、自覚とか全くないです。しかしそんな事言ってる間に時間はビュンビュン過ぎ去っていく訳で。

ちょうどいい機会なのでちょっと振り返って残りの20歳を少しでも有意義にしようかなと。 

 

題して 「20歳~twitter供養でちょこっと振り返る~」
 

Twitter。そうツイッター、今は誰もがやってるSNSです。

私もやっています。楽しい、癖になる、スマホを手に取ると条件反射で起動するツイッタアプリ。

ただ私は「なんでも呟く非リアルアカウント」だけで楽しんでいる、そういうタイプです。

そこには「大学で毎日のように顔を合わせている人とTwitterまでもつながるのはどうなんだろう…」という考えがありました。ちなみに現在は違います、今更つながるのも無茶があるなあ…という諦め(恥ずかしさ?)で所謂「リアルアカウント」はありません。

 

しかしそんな私にも一時的な気の迷い(笑)はあって、一瞬だけ「リアルアカウントのようなもの」を稼働していた時期がありました。総ツイートは8、フォロー、フォロワーは0(笑)。放置する予感が見え見えで悲しいので消しました。

その8ツイートをコピペして見ながら振り返ってみます。

Twitterに対してそこまで真面目に取り組んでいないので軽め、軽めに。

 

 

▲そのアカウントのプロフィール画像に設定してた写真。特定は避けつつ、無難なものを…と選んだ結果これくらいしかなかった。

 

◇◇◇◇◇◇

26 Nov 2015 

匿名ダイアリーがスマホだと入力し辛いのでこちらで
 26 Nov 2015 

アウトローな人もやりたい事が出来たり、一生懸命になってる事があったら正直になっていいんじゃないかな。外から見ると少しクサく見えたりするけどお互い様ってことで。
はてな匿名ダイアリーはムシャクシャしてバーッと書きたいとき使います。匿名ならではだと思います。そう、スマホだと入力しづらいんです。専用アプリでもできてくれれば…と思うけどそこまでするものははてなアノニマスダイアリーたる価値を下げるような(?)

 

◇2番目のツイートは今も思うことですね。

もう何度でも言いますが、私は高校生の頃・大学一年目の頃にもっといろいろしておくべきだったと後悔しています。ただそういうことは言っても殆ど意味なくて、体験してみて初めてわかることです。だからしょうがないといえばしょうがないです。

でもだからこそ他の人、アウトローな人(私からそう見えるだけで本当は既に分かってるかもしれないですが)には少しでも早く気付いてほしい。

 

27 Nov 2015

「自分を出す」「自分の好きな事を見つける」って一見凄い自分自分してるなと。でもそれが案外他人の為になるんだろう。と思っています。
◇あれ、自分はこのこと11月時点でわかっていたのか。「でもそれが案外他人の為になるんだろう。」の部分ですね。

まだ自分の好きなことは探し中ですが、「自分を出す」ことは試行錯誤してます。それもコミュニケーションにおいて他の人の安心にもなり得ると信じて。

一方で自分勝手に空回りしてしまうこともあるなと反省しつつあるので、やっぱり試行錯誤ですね。うーん、言葉がうまくまとまらない。

 

30 Nov 2015 

当たり前だけど他の学部にも"ヤバイ奴"っているんだなあ
30 Nov 2015 

非常に人間出来てる人に無視されたり蔑ろにされてしまうとああ自分はこの人のドラマに重要ではないのだなと感じて悲しくなる 
30 Nov 2015

こういった感情は小、中学校の頃に多く感じていたが、この頃再発してしまった。
30 Nov 2015

流されない強い自分を持っていれば、こんなに虚しくなってしまうことは無いだろうかな。ビジネスライクな関係と割り切れるのかも知れない。
 ◇あー、あるある。今でもたまにぐぬぬってなってしまう。

でもこういう「非常に人間出来てる人に無視されたり蔑ろにされてしまう」のって自分の対応とか表情を客観的に見るとそりゃそうだって感じなんですよ。

自分の挙動が不審だったり、元気がなかったり冷めてたりしたら相手もきっと元気をなくしたり冷めたり、悲しくなります。それを私が見て結果的に「無視された!蔑ろにされた!」って思うだけのこと。

それだけなんだなあって、自省の意味も込めて。

「好きなことを見つける」は4番目のツイートの「流されない強い自分を持っていれば、こんなに虚しくなってしまうことは無いだろうかな。」的な気持ちも要因としてあります。

 

5 Dec 2015

前撮りおわ。こういう改まった感じで家族にしみじみされるのになんとも言えぬ不快感を覚えてしまうのだけど、自分だけだろうか。 
 ◇これは自分でも何といったらいいかわからないのですが、こんな風に不思議な不快感を覚えることがあります。

大抵は改まって「自分が生まれて何か生きてきたなあ」と感じる時同時にぬるっと沸き起こります。

小学校高学年くらいの頃からでしょうか。不快感だからいつかなくなってほしいですが完全に忘れてしまうのも寂しいような…そんな感情です。

 

◇◇◇◇◇◇

 

いかがでしたか?

Twitterってやっぱりその時の頭の中をパッとアウトプットするのにちょうどいいんですよね。

少し経って見返すと、記憶から追いやられてた当時の気持ちとかを思い出したり。

 

よく見たらこのツイートは11月~12月の超短期間でした。

今度は20歳上半期(?)の7~9月くらい思い出してみたいですね。その時期「自分を分析しよう!」みたいな学校の課題があった気がするので引っ張り出してもいいかも。

 

 

そういえば真面目な振り返りは「2015年の振り返り」と題してしていました。 

ka-muchive06.hatenablog.com

 

上のリンクのように大きめの振り返りもいいけど、細かく振り返る方も1つ当りの負担少ないし、思い出しやすいし良い所が沢山ありそうです。

本当は両方やるのが一番なんでしょうが、難しいところです。

 

 

 

人は簡単に忘れるということ

 ”人間は、そもそも忘れる生き物である。”

これはいろんな人が科学的に言っていることです。

それがプラスに働くことももちろんある。忘れるからこそ、辛いことがあってもそれより楽しいことを想像して気が付くと楽しくなってる。辛いことなんかすっかり忘れて。

 

楽しそうなこと、やりたいこともすっかり忘れてしまうということ

 

やってみたいこと。

やらなくてもいいけど、やったほうが絶対楽しいこと。
もしくは、皆の為になると思うこと。自分の為ににやらなくちゃいけないこと。
いろいろ、沢山あります。

例えば私だと、映画だけでも見たい作品がざっと20タイトル。テレビの録りだめも見たい。
せっかくkindle買ってダウンロードもしたから、どんどん読み進めたい。

こういうことを考えているときは大抵ワクワク、うずうずします。早く取り掛かりたい!という気持ちでいっぱいになります。

でも少し経ったとき、下手すると10秒後くらいにはにはすっかり忘れてしまう。 
主に目前の「絶対やらなきゃいけないこと」に押されて。

あんなにやりたいこと、ワクワクすることなのに。

そんなことをふと感じたのは、意外にも学校の学期の授業が終わって少し暇になったとき。今ですね。

なんでだろうと考えると、私は学校に行くことをしてる間(授業中のちょっとした時間や電車を待つ時間とかに)やりたいこと、今の状況などをぼーっと考えることが多いから。かもしれないと思いました。

 

とにかく、私たちはすっかり忘れてしまうということ。

それは非常に勿体無いということ。優秀な人達にとっては、特に。

 

目標を”忘れず”に、持ち続けるということ

それと同じ思いで少し前、「目標を持ち続けること」といった内容を話しました。

授業内で一人一回、2分程度のスピーチする機会があったからです。

そのスピーチ、原稿ほぼそのまま載せます。

正直抜け漏れはあるかと思います。スピーチ当日の明け方4時に唸りながら作ったので…笑

よければそのままお読みください。

 

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 (挨拶)

 
 
今日は最後ということで何を話そうか悩んだんですけど、これまでの簡単な振り返り と これからに向けてを話していきます。
 
今日で最終授業です。そこで、皆さん少し今日までの授業のことを振り返ってみてください……
みなさんにとって、この授業はどのようなものでしたか?
 
少しだけ、私の話をすると、私にとってこの授業は「よりレベルの高い学びの場」になったと思います。
それは、ここにいる皆さん。
クラスの一人ひとりがストイックに、お互いを尊重しながら授業に取り組んでいたからこそだと思います。
本当にありがとうございます。
 
そして学びの場であるこの授業で私が学んだこと。
いろいろありますが、一番は、「行動目標を立てること。」そして今日やったように「振り返りまでちゃんとすること」だと思います。
 
ここでこれからに向けてお話したいのは、この「行動の目標」を持ち続けてほしいということです。
この持ち続けるというのは、行動計画と目標を立て、振り返りまで行うというサイクルを定期的に回すということです。
目標は、あくまで目標なので、達成できないこともあります。私も、冬休みは立てた目標の半分くらいしか達成できませんでした。
特に行動目標は達成できたかできなかったかがすぐわかる分、達成できなかった場合は落ち込むこともあると思います。
でも、そこで諦めないでください。達成できなかったからと言って、その目標の意味がなくなるわけではありません。
勿論、100%目標達成できれば文句はないですが、50%でも、30%でも、1%でも、問題はないです。最も大事なのは、目標を基に行動を起こすことです。
 
例えば私の場合、簿記2級の資格を取るために、「問題を毎日解く」という行動目標を決めていました。
でもどうしても予定があったりして、毎日続けることは難しいです。
次の日になって「そういえば昨日は問題解くことできなかったなあ」と思いだしたりします。
しかし、そこでネガティブな方向にハマるのではなく、ポジティブに、気持ちを切り替えていくことが、私たちには、できます。
私の場合は「ここまで1週間連続で毎日問題を解くことができた。だから、また今日から毎日頑張ろう!」と明るく考えるようにしています。そして少しでも時間があれば、その時点で早速問題を解くという行動を起こすようにしています。
そんな感じで、この「簿記の問題を毎日解く」という目標は今は連続5日目です。
 
今の私の例は「毎日やり続ける」という行動目標なので、「何かを何回する!」といった行動目標はまた違う対応になるかもしれません。
でも一貫して伝えたいのは、「行動の目標」を持ち続けること。計画、目標を立てる、振り返るというサイクルを回すこと。
目標達成できたかばかりに気を取られず、それに向けて1%でも頑張った自分のことも誇らしく思ってください。
 
最後に、多分以前誰かがフェイスブックで紹介していましたが、今回の締めとしてちょうどよさそうな名言を再びシェアします。
 
”心が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる”
 
みなさんがポジティブな心で目標を基に行動を起こし続け、またどこかで今よりもっとキラキラしたみなさんに会えるのを楽しみにしています。
もちろん、私も負けないよう頑張ります。ありがとうございました。

 

 

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「目標を持ち続けること」という意識自体はこの場にいた人たちはできているように感じました。

だから今思い返すと、話す内容としてそんな既にある意識でなく「その意識はどんなに優秀な人でも忘れることがあるから、忘れないように工夫してね!」ってことの方がよかったかもしれません。

 

人は忘れる、辛いことも楽しいことも、やりたいことも。
だからこそこうして、(ある程度)まとめた言葉ないし文字で遺すんだと思います。

文字に遺すこと。上のスピーチ原稿の文脈で言うと、目標、やりたいこと・やるべきこと、行動の計画など。加えて(この場合は)その時の考え方の経緯とか、気持ちなど。

 

とりあえず私は、やりたいことは気づいたときに

  1. 可能なら最初の手続き(連絡とか)を済ます
  2. 無理ならリマインダー(iPhoneのメモ)に書く
  3. Twitterないしブログに心境を綴る

などするようにしています。

しかし「メモするのも後でいいや…」となってしまい、結局忘れることがあります。
また、メモしたものを頻繁に見ることをしなかったりもします。


「後でじゃ絶対忘れる!人は忘れる生き物!人は忘れる生き物!!」
これを頭に叩き込んで生きていたいものです。

 

「合理的でない」頃と今と

もうすぐ成人の日。

去年は大学の先輩が振袖写真をSNSにあげるのを見て、「もうそんな季節か…時の流れは早いなあ」としみじみ思っていました。
そんな私も今年は成人式に参加する予定です。
 
 

成人式といえば思い出すことは、小学校・中学校時代の記憶。

当時の私がどんな児童・生徒だったのか。
自分でも覚えていないし、周りもあまり覚えていないんじゃないかと思う。
 
ただ私の説では人間誰しもその頃、特に中学生の頃は「イタい」。俗に言う「中二病」ってやつの一種ではと思っている。
みんなどうかしてた、お互いに。
今でも仲良くしている友達のあの子。美人聡明で有名高校に進学したあの子。みんなみんな。そして、私も。
 
なぜあの子は急にマジ切れして私の悪気のない過ちを責めたのだろう。
なぜあの子は部活のパートナーともいえる存在を「嫌い」と言い放ったのか。
なぜあの子は自分が遅れたことについて延々と自慢らしい語りを続けていたのか。
 
わからない。全く合理的じゃない。
そのときはすごくつらかったはずだが、喉元過ぎれば何とやら。
まあそんなこともあるよね。人間だもの。
そのときの記憶は”思い出”として胸の奥にしまって、今でも仲良くしている人もいる。
 
 

一つ、思い出すのもつらい”思い出”がある。

 
あの時、なぜ私は大事な場面でありえない大チョンボしたうえで、ぼんやり立っていたのだろうか。
今出来事を思い返してみても、なぜここでその行動を選んだのか全くわからない。
 
トーリーはこうだ。
 ◇◇◇ 
 
中学生のときだったと思う。
 
学年全体でいくつかの班に分かれて、舞台の上で発表をすることになった。
みんな基本的にやる気だ。なんでだ。似たような合唱祭だとやる気ある組・ない組で対立が起きたりするのに。
私はその頃から人前に立つのが苦手だし、好きではなかった。いかに手際よく裏方に回れるか。それだけを考えていた。
班は友達数人と「友達の友達」で構成されていた。友達の友達は、小さい学校だったから顔も名前も知っていた。でも背が高かったり、雰囲気がギャルっぽかったりして怖かったので自分から話しかけることは無かった。
 
私たちの班では劇をやることに決まった。ここはどうやって決まったのか、全く覚えていない。
ただ、なんとなく友達が私のよく知らない人もひっぱって、うまくやっている。
それがわかってしまって、そのときはよくわからないけどショックだった。その友達がどこか遠くに行ってしまった気がした。小学校の頃からの付き合いで、当時一番仲が良いと思ってたのに。
そう思うと、この頃から私の「他人任せ癖」は始まっていたんだなあと。
 
役割分担も、確か珍しく平和に決まったと思う。
そう、私は無事裏方になることができた。担当は音楽。舞台の進行に合わせてボタンを押す。簡単だ。考えなくても、覚えなくても、紙を見ながらできる。
 
なんだかんだで迎えた当日。
予防線を張っておくと、私たちの劇は当日ギリギリまで細かい台本を変えていた。というか台本はなかったと思う。
劇内容が結局どうなったのか、よくわからなかった。友達は忙しそうに話してるし聞くこともできなそう。
最後に音楽の確認に来てくれた友達を見たときは、ほっとした。
合図の通りCDラジカセのボタンを押す。再生、スキップ、スキップ、停止。
オチにこのトラック番号を再生。班のみんなでオチに爆笑する。
 
「タイミング、バッチリじゃん!」
褒められた。嬉しかったので、やってやろうじゃん!と少し乗り気になった。
 
学年のみんなが体育館に集まった。広い体育館ではなかったけど、一学年の人数が多くはないから余裕がある。みんな好き好きに場所を取って座っている。
私たちの班はトップバッター。
嫌な予感がした。いやいや、最初にやってしまえばあとは他の班の発表を見るだけ。むしろラッキーではないか。そう思うことにした。
私たちの班の劇が始まった。役者が舞台に出てくる。
私は舞台袖に座っている。側にはCDラジカセ。ここであの音楽を流す。次はあの音楽。とここで、ギャルっぽい子がこちらに来た。何だこの子。自分の役割はどうしたんだろう。
なんて思っていると、その子はCDラジカセの音量ボタンをいじって、ボリュームを上げた。
どうやら大きな舞台でBGMの音量は小さかったらしい。
なんだ、びっくりした。というかそうならそうで合図してくれればいいのになあ。音楽担当は私なんだから。そんな風に感じていたときだと思う。
ちょうど、班の誰かが合図してきた。「音が大きすぎて役者の声が聞こえない」。慌ててボリュームを下げる。
 
  覚えているのは、この辺りまで。
既に半分パニックになっていたのかもしれない。
ふと顔をあげて舞台のほうを見ると、班のみんながこちらを見ている……気がした。
あっ!オチの場面で音を待っているんだ!流さなきゃ!と急いであのトラック番号にスキップ。
さあ待望のオチだ、きっとみんな爆笑する―。
 
 
「テレッテテレッテレ ♪」
 
ゲーム、スーパーマリオで体力がなくなって力尽きた時のSE。
 
みんな知ってる”あの”音が、体育館全体に響いた――瞬間、さーっと空気が冷たくなるのを感じた。
まずは舞台の方から、続いて体育館全体から。
私はすぐに察した。
要は間違えたのだ。まだ劇のオチは来ていなかった。
舞台の進行はわからないけど、この状況がまずいのはわかった。
時が止まった気がした。どうしよう、どうすれば……。
 
そのとき、観客側からどっと笑いが起こった。
こっちは間違えて焦ってるのに何が面白いのか、なんか癪に障る。よくわからないけど、最悪の事態は避けられたようだった。
ちょっとだけ安心したが、まだ何が起こったか整理しきれていない。
再開された劇も他人ごとに見えてきて、そのまま舞台全体をぼーっと見ていた。
 
そんな感じで私たちの発表は終わり、すぐに次の班の発表が始まった。
なんとなく、班の人と一緒に舞台から降りた。真っ暗で、目は合わせられなかった。
そのまま班の人たちは体育館内の暗闇に紛れていった。私は合流する気もしなかったので、一人適当な位置に座った。
相変わらず頭はフリーズ状態だった。その後他の班のやっていた内容も頭に入ってこなかった。
 
すべての班の発表が終わり、みんなぞろぞろと教室に帰っていった。
給食の時間。こんな時に限って給食当番。
私は回らない頭で、とりあえずこのまま消えてしまいたい……。そんなことを思っていた。
しかし存在を消しては、私の給食当番の一員としての今日の担当、「一人ひとりに皿とスプーンを渡す」仕事ができない。謎の責任感だけはあった。
このとき「給食のおばちゃん」服に包まれた私を見て、同級生のみんなは何を思っただろう。
最初の発表のごたごたなんて忘れているかも。もしかしたら”あれ”はほんの些細なことで、そんなに大事に考えることもないのかも……。
ふとした瞬間、しかし確かに私の苗字を聞いた。
 
「固まってるじゃん。」
その声の主は、頭がよくて、顔が整っていて、サッカーをやってる。3拍子揃えた醤油顔の男の子だった。
彼が何をもってそんなことを呟いたのかわからない。
ただ”あれ”は確実に、少なくともこの人の記憶に刻まれていた。そう、クラス内ヒエラルキートップに位置するこの人の。
その事実を目の前に突き付けられて、皿を配りながら泣きたくなった。
できることならすぐにでも教室から飛び出したかった。
できなかった。ただでさえ目立つのは嫌なのに、これ以上注目を浴びたくない。
それに、ここで逃げるのは”あれ”が理由だって言っているようなものだ。
私の意地汚いプライドのようなものが、それを嫌がっていた。
 
 ◇◇◇
 
 

私の中では、その後班の人たちに謝罪をした記憶はない。

班で集まる機会もなかったのだから難しかったのだろう。

でも、頑張っていた友達。そのあとも割と変わらず仲良くしてくれた。何事もなかったかのように。
その子には、ちゃんと”あれ”を話題に出して謝るべきだったなあ。
きちんと「謝ろう」という考え。少なくとも劇が終わって、舞台を降りるときまではあったと思う。
そのあと、なぜその考えを消してしまったのだろう?
今となっては、当時の私の頭の中はわからない。
 

ただ、現在の自分に当てはめてみると、思い当たることがある。

「タイミングが合わなかったから」、「今言い出すとカッコがつかないから」、「もうだいぶ昔のことだから」…そんな言い訳をして、勇気を出せない。
 
「ありがとう」と「ごめんなさい」ができない、そんな人とは付き合いたくない。誰かが言ったのを覚えている。
しかし、悲しいことによくあることなのだ。
 
この間も、私の都合のためにいろいろ策を講じてもらったことがあった。
なのに別れ際に一言、LINEで一言。終わり。
しかもそれを言ったのは一番助けられた人1人だけ。他の人にも十分助けられて、申し訳なくて、感謝もしているのに。
傍から見たら、「なんて不愛想な」とか、「こいつはしてもらって当たり前だと思っているのか」とか言われるかもしれない。
本当にそうだ。なのになぜ。自分でも意味がわからない。
 
 
謝罪と感謝の言葉だけじゃなくても、例えば知り合いと学内ですれ違う。
ここで挨拶するか、しないか。
挨拶したとして、少し談笑するか、しないか。
私の場合、ちょっとした知り合いでもわざわざ気づいて話しかけてもらうのは、すごく嬉しいことだ。
この人にとって私は、まだ声をかけるにふさわしい友達なのかも。そう感じるから。
 
これを普通ににやってのける人を何人も知っている。
半年以上会っていないのに。私のほうは名前を忘れているというのに。相手も私の名前を忘れているかもしれないけど。
 
知り合いだけ増えて、中々私の「おひとりさま」属性は抜けない。
それには、こういう要因もあるんじゃないかと思う。まあこの半分は現状に満足してるっていう圧倒的なものがあるから、難しいところもある。要再考。
 
 
ともあれ。
「ありがとう」と「ごめんなさい」。確かに思っているのだ。それなら、素直に口に出すだけ。こればっかりは、動くしかない。
 
 
◇上の知り合いとすれ違ったときに~ということを書いていて、このツイートを思い出した。

 なるほどなあ。ドンピシャである。
 

 
つまりこういうのは才能でも努力でもなく、想いありきなのかな…?
想い。いろんな人と話すのは楽しい。仲良く話せたという事実も心地よい。
それに、たまに思うことがある。
「誰かとすれ違わないかなー」すれ違って何をするのか意味がわからないが、多分きっかけがほしいんだと思う。
そしていろんな人ともっと、できれば深く話したいんだと思う。
 
もしかすると。
自分から声をかけに行きたい!という思いより、いや無理っスって条件反射が強くて、話しかけられない。のかもしれない。
一応そう仮定して話を進めてみます。
でも結局それは一体どう解決すべきなんだろう?
それを乗り越える思いの強さ、ハードルを下げる技術的工夫、勇気など…?こんがらがりそう。
 
でもこれは声をかけるを例にして、具体的行動だ。
それならやるかやらないか、シンプル。
つべこべ言わずに「やってみる」。なんだ、「ありがとう」と「ごめんなさい」と一緒か。
案外アリかもしれない。
 
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ここで紹介したツイート。これはあくまで一部なので、ぜひ他のツイートも読んでほしいです。
 

2015年の振り返り

 年末にうじうじと書いてた去年の振り返りです。
大学で2年過ごしていろいろあったので書いてみようと思い立ちましたが、書き始めると長い長い。正月を迎え三が日も過ぎ、そろそろ年始の気持ちに切り替えて課題に目をやらないとまずい・もうなんとなくまとまったのでアップします。

 年始から何と重いものを投げていくんだという感じですが、良ければお付き合いください。基本的にそんなに説明いらずの文章にしたかったので抽象度高め。

 

 

  • 「やらないで後悔するより、やって後悔したほうがいい」を繰り返した一年

  行動だけみると去年よりいろいろやってみた。特に後期(秋学期)は"動いた"印象。

 1年次の春休みは死ぬほど暇だったけど、その暇さを返してほしいくらいやりたいことがあって。やりたいかどうかは微妙だけど、とりあえずやってみよう!やってみたら楽しいかもしれないし!と思えるようになって。
具体的には新しいサークル、某研修向けプレゼンのトレーニング(そのまま。ミニバージョンを本学で体験できた)、フィリピン短期留学、後期のアクティブラーニング型授業、ミュージカル、映画鑑賞、などなど。

 やってみた分、うまくいかなくて恥ずかしさやみっともなさ、ふがいなさに目を覆いたくなることもあった。
今後はできればそういったことにも完全に忘れ去るのではなく、内省してその経験を昇華してから忘れるようにしたい。

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↓ちなみに、直近の失敗ついて内省

  • 年末の発表

 要は準備不足、だろう。+αで発表する感覚を忘れていたこととか、そもそも慣れていないとか。自分は土壇場でできるわけがないとわかっていたのに、謎のロジックで(もう考えることも嫌だし)途中から何を言おうか考えまとめることを放棄していた。

 一応発表直前に途中まで考えを巡らせていたけれど、いつの間にか「どれだけちゃんとしたものを言うことができるか、ウケがいいものを言えるか」といった思考回路にすり替わっていた、ような気がする。正直そのとき前の人の話も聞いていなくちゃだし、緊張していて、記憶が途切れている。
ここでしたのはあくまで自分の目標・それを達成するための行動計画の発表。そのためにこの限られた時間で考えるべきだったことは(目標は決まっているので)行動目標をぱっと定めて、よりわかりやすく伝える方法だった。

 客観的な立場に立つと、とりあえずスキルがないように見えただろう。ああ、慣れていないんだなあって。特にダメダメだったのはテンポと締め。この辺は慣れさせる以外に対処法が思いつかないが、意識としては“思いきる”ことかなと思う。

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 こんな風に“行動”に重きを置くようになったのはいつからだったか。

 明確にはわからない。ただ、大きなきっかけとなったのは某研修向けプレゼンのトレーニングとサークルで権限を持ったこと、アルバイトの記事執筆における一連の取材においてだろうか。
特に1つ目は「一歩踏み出すこと」に当日ギリギリまで迷ったのをよく覚えている。でも実際に参加してみると後悔も悲しみもなかったし、むしろ少しのドキドキと達成感?が強く印象に残って、少なくとも参加してよかったと思えるものだった。
後ろ2つはとても忙しいタイミングだっただけに、改めて自分で行動を「宣言すること」、「選び取っていくこと」、「試行錯誤すること」みたいなものを考え直すきっかけになった。

 

 年末だから「“結果”残せるような行動をしたか?」と問う、答えはNO。

 自分の行動は当然他人に影響を与えるから、それが結果的に少しは功を奏したことはあるかもしれないけど、「自分は何を成し遂げたのか?」と自問自答しても私は何も言えない。
それでも、正直今年はいいかなと思う。それよりも兎にも角にも私には経験がないから、行動を起こしていろいろな経験を積むこと。今年は上で述べたようにいろいろやってみたけど、まだまだ足りない。

 

 という訳で、2016年もそのスタイルは変えずにやっていく所存で。
以下については後ろで詳しく書くが、“正直”になる、「自分の人生を生きる」がスローガン。
さらにこれで自分のやりたいこと、なりたいものが見つかれば大成功かなと。来年度は3年生ということもあって結果も見ないといけない…が、まだ自分の中で納得できていないので保留。

 

 

  • 「他人の人生を生きるな」という耳覚えのある言葉

  しかし相変わらず「他人の人生を生きる癖」、もっというと「親先生周りの友人先輩に責任を投げる癖」、「言い訳逃げ癖」、「主体性の無さ」が目立った。

  一応 最低限「他人の人生を生きる癖(他人が言うことに思考停止で従うこと)」はしないよう、いつからか意識して行動することはできていたと思う。

 一方、好きなことを好きだと言う、提案をする、宣言する、「ちゃんと」周りを巻き込むということはまだまだだ。これは後期のグループワークをはじめとして、今年最後の日までずっと悩んで、ハッとさせられて、考えた課題だったと思う。

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理由と対処法については

  • まず好きなことやこだわりがない、わからないから頑張れない(経験をしよう、リスクは負おう)
  • 長めの目標がないから頑張れない(リスクを負って指針を作ろう、直してもOK)
  • 勇気がない(周りは受け入れてくれると信用しよう、失敗しても問題はない、後期授業の班の人たちには本当に感謝している)

あたりだろうな、という結論になった(ここまでわかって今一ピンと来てないので、もう一度考え直す必要はありそう)。

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  • 「お互いに成長しあえるような関係」という目標

 「卒業までにお互いに成長しあえるような関係を作る、保ち続ける。」みたいな目標を立てていたことを、書いている途中で思い出した。

 1年生のときだ自分の卒業までの目標を立てる、という最終課題があったからだったと思う。そして最近の同じような授業でもそんな目標をしばしば書いていた。
ここでいう「お互いに成長しあえるような関係」は信頼関係の上でお互いに思ったことを言いあって、切磋琢磨していくような関係。

 単純にそういった信頼のある友情への憧れがある。よくつるんで何でも話せて、くだらない話もするけどまじめな話もし合う。
例えて言うなら、ゼミが始まって最初の活動の○○班みたいな感じだろうか(ノンゼミなのでわからない)。

 そんな関係で物事を進めると、長期的に結構うまくいくと段々身をもって気づいてきたからよく出すようになったのだろう(その割に年末は「主体的に動く」という行動だけしか頭になかったけれど)。

 社会に出てからのことをぼんやりと考えても、それにできるだけ近い関係で仕事をしていた方が楽しいしきっと生き生きワクワクするよね、ということ(アルバイトで記事執筆のためにいろいろ交流して気づかされたこと)だろうか。

 

 さて当初はこの目標だけ独立していたけれど、それも違うと思い始めた。

 これは“状態”なので多分目標というよりそれに付属するもの。欲しいと足掻くことは大事だが、それだけに囚われてしまう本末転倒のような……。
似たようなものとして「幸せになりたいと思って何かをする人は幸せになれない。」、「何かを成し遂げて、それにくっついてくるものが幸福だ。」というようなことを聞いたことがある。

 私の考える「お互いに成長し合えるような関係」には自分も相手も「自分の人生を生きて」いる。だからお互いによく知っていて、何でも話せて、ゴールが共有されていて、信頼関係がある。
つまりさっきの「“正直”になる、『自分の人生を生きる』ことをスローガンに生きる。」ができればこの目標の2/3は達成したようなものではないか。

 あとは運や、相手や、私の他人に対するモチベーションみたいなものに因るだろう。後々捉え方は変わるかもしれないが、もしかしてこれって「面倒でも一緒にいていろいろ言い合えることは楽しい!あとお得!」と思えることが肝なのかもしれない。
表面だけの交友関係は比較的簡単にできるが、「お互いに成長し合えるような関係」は作るのも、維持するのも面倒くさい。
それでも自分を動かしていくためには、ある程度理由がなければいけない。こんな展開になると倫理的に「お前は人間関係に損得を求めるのか」って感じだが、ここは突き詰めてもキリがない気がするのでこれくらいに。

一応メモ程度に、多分社会に出ていったら人間関係は変化していくものになる。
だから強いて目標とするなら「お互いに成長し合えるような関係」をどんな人に対しても早く築ける能力があればいいのかなあと。

 

  • まとめ

 某大学某学部2年。もともと入っていた珍しい部類のサークルと今年度入った某サークルと。実家は少し田舎で、コンプレックス。そんな意識だけは常にあった一年間。

 1年生の頃から珍しいサークル×同じ学部の人は一人だけというような「他に無い属性の組み合わせによるアイデンティティー」を意識していた。
けれど、それはあまり意味のないことかもしれないと思い始めた。

 きっかけは私が「自分らしさが出せない」と言ったときに、Aを選ぶこともBを選ぶことも、選ばないことも自分で他にはないと助言をもらったこと。

 属性も大事だけど、結局はその環境で何をできるかを考える方がシンプルだから力が注ぎやすい。強いて言えば、そういうものの積み重ねが俗に言うアイデンティティーになると思っている。

 だから行動を起こしていこう。なんとなくやりたいことがあれば試せばいい。成功したらその喜びを忘れずに。失敗したら内省して。暫定だけどそこにまとまった。

 

 繰り返します。今年は“正直”になる、「自分の人生を生きる」がスローガン。さらにこれで自分のやりたいこと、なりたいものが見つかれば大成功かなと。来年度は3年生ということもあって結果も見ないといけない…が、まだ自分の中で納得できていないので保留(すぐに課題で考えることになりそう)。

 スローガンについて具体的に言うと、

  • 言いたいことはその場でちゃんと言う
  • 自分のやりたいことをやる
  • 暇なときに(対して楽しいと思っていないのに惰性で)ゴロゴロして悔いるのを減らす

 これは難しい。似たようなことを周りでしばしば聞くので、人類永遠の課題かもしれない。今のところ対策が「無理やり予定を入れて外出すること(作業は図書館でやる)」くらいしか思いつかないけど、この方法は長期休暇に弱い。ついでに田舎住みにも弱い。

 

 

 以上です。ちなみに、前々からブログを書いてみたいと思ってたので今は満足です。
長文は集中力を保つのが難しく苦手ですが、書き始めるとすごく楽しいと気付きました。せっかく重い腰を上げてブログ開設したし、折に触れて書いていけるようになりたいものです。