飲み会があまりにも苦手
飲み会が死ぬほど苦手である。
今この文章を書いているこの瞬間も飲み会の帰りの電車である。新入社員として、小規模な飲み会にお呼ばれして参加した。
会としては無事楽しく終わったと言っていいだろう。誰も会の評価などはしないが、私は心から良い会だったと思っている。
ただ私の現在の心境としては、嫌悪感と僅かな達成感しかない。他の事を考える気力もなく、ただ脳直でスマホを弄るだけだ。
この嫌悪感とは、思うように話が出来なかったこと、それ以前にうまく言葉や声を出せなかったことなどが要因にある。ちなみに僅かな達成感は、ひとまず「今回の飲み会を切り抜けた」という自己肯定だ。
要はそもそもコミュニケーションが終わっているのだろう。
それなのにコミュニケーションの活発さ、溌剌さが求められる飲み会の場でうまくいくはずはない。
なぜあの場面で言葉を切り出せなかったのか。真顔の瞬間に人と目が合った後、堪らず逸らしたことを思い出し悲しくなる。あまりに悲しくなるので深く考えることはやめよう、となる。
もう今更、終わっているコミュニケーションをどうにかできるとは到底思えない。どうにかしたいからこうしてつらつらと文章を書いているが、完全解決は無理だろうという話だ。
私が他の社員の方と話す時の雰囲気だとか、それ以前に人への曖昧で微妙な接し方は今日までの私の対応で決まってしまっているのだ。
どこかで違う生き方をしていたら、もう少し飲み会やそのためコミュニケーションを毎回楽しいと思うのだろうか。
普段から口数は多くない。人と人の仲が良いのは良いことだと思っているが、自分のことになると自己の世界を守りたい気持ちが優先されてしまうのだと思う。
私に守りたいほどの自己の世界があるのかというと、すぐには具体例が思い付かないため否定も肯定もできない。
逆に世渡り上手な人は自己の世界を持っていないのだろうか。いや、そんなことはない。 そういった人達はしっかり自分の意見や考え方を持っていて、なおかつ人にもそれを話して上手く人を巻き込んでいるのだ。
たまに自分でも余計だと思う意地を張るときがあるので、きっとそういう所なのだろう。つまり、自己の世界が変わってしまうことも恐れずにそれを表に出すことが少しは根本的解決に繋がる…と思う。
それがすぐに実行出来ていたら苦労はしないけど。
─
またこれは私のどうこうに関係ない文句ですが、
アルコールを飲むような場でないと会社の様々な人と話す機会がないのはなんだかなあと思う。
「会社の大きな飲み会は、会社の(偉い)人と会話ができる貴重な機会」と言われた。現代日本ではまあそうだろう。
しかし少し考え直してみると、飲み会でないと話す機会がないのは少しおかしいのでは?となる。
アルコールを含んだ会社の偉い人は2/3の確率でお話にならない。それは酔っ払い単体で潰れたり、一方的なアドバイスモードになったり、場が宴会ノリに入ってしまったり等の事例がある。
飲み会がもうそういう「羽目を外してストレスをパーっとやる場」なら、他の「会社の人と話す機会」もあってほしいものである。 こういった会社の人との人脈形成が本当に昇進なりに繋がるのであれば尚のことだ。
それにしたって私は前述の通りコミュニケーションが終わっているので、色々と難しいものはあるが……